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「宋濂傳」
清の張廷玉等撰「明史」卷一百二十八より
ゼミ生 K.F.訳
宋濂は字を景濂という。その祖先は金華(今の浙江省中部の県)の潛溪の人で、宋濂の代に
浦江(今の浙江省蘭谿県の東北)に移り住んだ。幼い頃から秀でて賢く、記憶力が良かった。聞人
夢吉のところで学び、五経をよく理解し、また、呉莱〈注@〉の学問も学んだ。柳貫〈注A〉・黄□
〈注B〉の門に入った時には、両人ともすぐに宋濂の方が優れていると分かり、自分たちは及ばない
と思った。元の至正年間(一三四一〜一三六七)に、翰林編修の官を授かったが、親が老いていた
ので赴任せず、龍門山に入って書を著した。
十余年たって明の太祖が□州(今の浙江省金華県)を取りもどし、宋濂を呼び寄せた。その時
すでに寧越府に改められており、知府の王顯宗に郡学を開かせて、宋濂と葉儀を五経の先生に
した。明くる年の三月、李善長〈注C〉に推薦されて、劉基〈注D〉・章□・葉□と共に召されて應天
に行き、江南儒学提挙に除せられ、太子に五経を授けて、まもなく起居注に改められた。宋濂は
劉基より一歳年上で、二人とも東南で身を立て、高い評判を得た。劉基は気質が優れていて強く、
珍しい気質であったが、宋濂は自らを儒者であるとした。劉基は軍中の謀議を助け、宋濂もまた、
はじめから文学が優れていることで帝から知遇を受け、常に帝の左右に仕え、政治顧問となった。
かつて招かれて『春秋左氏伝』について話をしたとき、宋濂はこう進言した。「『春秋』は、孔子が善い
ことを褒め、悪いことをけなした書です。もし、書いてあるとおりに行なえば、褒めることと罰すること
が適切で、天下を平定することができます。」と。太祖が宮中の正門に出向いた時に、黄石公の
『三略』〈注E〉を口語訳した。宋濂は「『尚書』の二典・三謨は、帝王の踏むべき道であり、大切な法
であるので、ことごとく備え、注意してこれを講究し、明らかにすることをお願いしたい。」と。言い終わ
り、次に、褒めて物を賜ることについて論じた。宋濂はまたこう言った。「天下を得るには人の心が
基本になります。人の心が安定しなければ、黄金と絹をたくさん与えても何の役にもたちません。」と。
太祖はことごとくすばらしいと褒めた。乙巳(一三五六年)の三月、帰省することを願い出た。太祖は
太子と共にねぎらって物を与えた。宋濂は手紙でお礼を述べ、太子にも手紙を書き、「友を大切にし
て敬いつつしみ、徳を進め、学業をおさめよ。」と励ました。太祖はそれを見て大変喜び、太子を呼ん
で手紙の意味を語り聞かせ、手紙を書いてくれたことを褒めて返礼し、併せて太子に手紙で返事を
させた。宋濂は父の喪に服することになった。喪に服した後、呼び戻された。
洪武二年(一三六九)、『元史』を整備するよう告げられ、総裁官の職に就くように命じられた。この
年の八月に『元史』が出来て、翰林院学士に除せられた。明くる年の二月、儒士である欧陽佑らは、
元の元統年間(一三三三〜一三三四)以後のことがらを編修して朝廷に還した。そこでまた宋濂に
続けて編修させ、六ヵ月経って再び出来、黄金と絹を賜った。この月に、朝廷に仕える任期が終わり、
編修の官を降りた。四年、国史司業に遷せられたが、孔子を祀る行事で失敗を犯したため、安遠の
知縣に官位を下げられた。しかし、すぐに呼び戻されて礼部の主事になった。明くる年、賛善大夫に
遷せられた。この時、帝は文道によって国家を治めるようにしていて、国中から張唯ら数十人の儒士
を招き、その中で若くて衆人より秀でた者を選んだ。皆が編修に優れていたので、御所の文華堂に
入り、好きなだけ業を習わせて、宋濂に彼らの先生をさせた。宋濂は太子に十余年付き添い、言動
は、すべて一貫しており、礼法に基づいてそれとなく諭し進め、人の道にたどり着かせた。政治に
よって強化することや、国家の興亡に関することには、必ず拱手して、「当然こうするべきで、ああす
るべきではない。」と言った。皇太子は容貌を整えて謹み、常に好んで受け入れ、いつも先生と称した
そうだ。
帝が符を分けて功臣に与えようとするときに、宋濂は召されて五等封爵について話し合った。大本
堂で討論していると夜が明けていたが、ことごとく漢・唐の時代の古い事柄を拠り所にし、その内容を
考えて、それを進言した。甘露がしばしば降ったので、帝は災いと幸いがどうして起こるかを聞いた。
宋濂は、「運命は天が定めるのではなく、その人によって定まり、良い兆しはめでたいことによらず、
仁によります。『春秋』が珍しいことを書き、めでたいことを書いていないのはそのためです。」と答え
た。帝の甥である文正が罪を犯したとき、宋濂はこう言った。「文正は本来は死罪に相当するけれど
も、陛下は親戚は親戚として扱わなければなりませんから、彼を遠地に留めておけばいいでしょう。」
と。天子が車に乗って、四方の丘に行って祀りを行った時に、心が憂えて安らかではなかったが、
宋濂は落ち着いてこう言った。「心を養って欲望を少なくすることよりも良いことはありません。きちん
とうまくそれを行えば、心は清く、体は安らかになります。」と。帝はうまいこと言うなとしばらく褒めた。
以前、帝王の学問をやってみたいが、どのような書物が役に立つかを尋ねられた。宋濂は、『大学
衍義』を薦めた。そこで、それを大きく書いて、殿堂の東西の廊下の壁に掲げさせた。しばらくたって、
西の廊下に帝がお出ましになると、諸大臣は皆居たので、帝は『大学衍義』の中の、司馬遷が黄帝・
老子のことを論じたところを指して、宋濂に分かりやすく説明させた。説明が終わり、それに関して
こう言った。「漢の武帝は、方士たちの誤ったすくいようのない学問に熱中しすぎていて、文帝・景帝
の時の、恭しくつづまやかな教えを改めてしまったために、民衆は疲れてしまい、その上、後には厳し
い刑で監督されるようになりました。帝が本当に礼儀で人の心を治めれば邪説は入らず、学校で民衆
を正せば禍乱は起こりません。刑罰を第一に適用するようなことはあってはなりませんと。夏・殷・周
の三代の年数と、国の広狭を問い、こと細かに述べて、またこう言った。「三代は天下を治めるのに
仁義で治め、そのため長年を存続しました。」と。また、こう問われた。「三代以前は、どのような書物
が読まれていたのか。」と。それにはこう答えた。「昔はまだ書物というものがなくて、人は書物の意義
を究めて読むということを専門的には出来ませんでした。人の主君となるような者が、政治と教育を
兼ね、だいたいその人が、自分で実際に行ってすれば、民衆は自然に教化されました。」と。以前、
詔を受けて、鷹を詠み、七歩歩くうちにすぐ作れと言われたことがある。出来た詩の中に、「昔から
狩猟にふけることを戒めるという言葉があった。帝は喜んでこう言った。「おまえの詩はよくできている
と言える。」と。宋濂が、事あるごとに誠を尽くしたのは、いつもこんな具合だった。
洪武六(一三七三)年七月、侍講学士知制誥・同修国史の官職にかわり、賛善大夫も兼ねた。
□同・楽韶 鳳と日暦を編修することと、呉伯宗らと宝訓を編修することを命じられた。九月に
散官資階が定まり、宋濂は中順大夫の官職を与えられ、帝は国政の事も任せたかった。しかし
辞退してこう言った。「私は他にとりえがなく、文学に関する職で満足です。」と。帝はますます宋濂
を重んじた。八年九月、太子や秦・晋・楚・靖江の王に付き添い、中都で武術を習った。帝は世界
地図の『濠梁古跡』一巻を手に入れ、使を遣わせてそれを太子に与え、宋濂を訪問させ、事ある
ごとにこれについて語るよう、書き付けておいた。そこで、太子が宋濂に示したので、宋濂は明確
に説明し、事あるごとに意見を述べたので、太子のためになった。
宋濂の人柄は、真心があって慎み深く、宮中に仕えて長いが、今までに人の過ちを非難したこと
がない。宋濂が居る部屋は、「温樹」と言う。訪問者が、宮中ではどのような話し方をすればよいの
かと問えば、「温樹」と答えた。以前、訪問者と酒を飲んだことがあり、帝はひそかに使いを出して、
それを偵察させた。翌日、宋濂に、昨日酒を飲んだかどうか、その席にはだれが居たか、何を食べ
たかを尋ねた。宋濂は、詳しく事実を答えた。帝は笑ってこう言った。「その通りだ。おまえは私を
裏切らない。」と。時々、宋濂は召されて、多くの臣下の善し悪しについて尋ねられた。宋濂は家臣
の善い者を挙げてこう言った。「善い家臣と私は友なので、善い家臣は知っていますが、善くない
家臣は知りません。」と。主事である茹太素が、それをすべて上書した。帝は怒って廷臣に聞いた。
ある人がその文書を指してこう言った。「これは礼を尽くしておらず、誹りあざけっていて、礼儀が
ない。」と。宋濂にこう尋ねると、こう答えた。「彼は、陛下に忠義を尽くしただけです。陛下は意見を
述べる道を開いてやるべきで、どうして罪を深める必要がありましょうかと。帝はその書を見た上で、
採るに足る所があると思った。ことごとく廷臣を集めて問い詰め、宋濂の字を 呼んでこう言った。
「景濂がいなかったら、ほとんど間違って、意見を言う人を罰するところだった。」と。そして帝は彼
を誉めてこう言った。「私は最上のものが聖人となり、その次が賢者となり、その次が君子となると
聞いている。宋景濂は私に仕えて十九年になる。今までに一言の偽りもなく、欠点を責めることもなく、
常に二心がない。君子にとどまらず、そもそも賢者と言うべきだ。」と。帝にお目にかかるたびに、
必ず座る場所を設けて茶を持ってこさせ、毎朝一緒に食事させ、相談に行き来し、夜になると帰る
のが常だった宋濂は酒を飲むことが出来ないのに、帝は酒を強いたことがあり、三杯も飲んで歩く
ことが出来なかった。帝はとても喜び楽しんだ。帝が『楚辞』の一章を作製し、文学侍従の臣に命じて
「酔学士の詩」を作らせたまた以前、湯と甘露を調合し、帝みづから酌して宋濂に飲ませてこう言った
ことがある。「これはよく病気を癒し、寿命を延ばす。おまえと一緒に長生きしたい。」と。また、太子に
告げて良馬を与えさせ、「白馬歌」一章も作らせ、侍臣にも同じテ−マで歌を作るように命じた。その
恩寵・待遇はこのようであった。洪武九(一三七六)年に、学士の位を承旨知制誥に上げ、賛善大夫
を兼ねさせたのはもと通りであった。その明くる年に辞職し、帝の作った文集と美しい絹織物を頂き、
宋濂は何歳かと問われて、「六十八歳です。」と答えたので、帝はそこでこう言った。「これを三十二
年間置いておき、百歳になったら、それを祝う衣を作っても良い。」と。宋濂は文書で敬意を表し、
礼を述べた。また、明くる年に入朝した。洪武十三年(一三八〇)第一番目の孫である愼が、
胡惟庸〈注F〉の党人として罪に触れたので、帝は宋濂を死なせてしまおうとした。しかし、皇后・
太子が助けようと努めたので、そこで茂州への島流しになった。
宋濂の容貌は、体格が良く、りっぱなひげを生やし、近くを見ることに優れていて、一粒の黍の上
に数文字書くことが出来た。若いときから老いるまで、一日も書物から離れず、学問において理解し
ていない事はなかった。文を作れば深く広く、昔の作者と並び称された。朝廷に仕えているとき、
郊社・宗廟・山川・百神の典、朝会・宴享・律暦・衣冠の制、四裔・貢賦・賞労の儀、傍及〈注G〉・
元勲〈注H〉・巨卿碑記刻石の辞は皆宋濂に委ねたので、しばしば推薦されて文筆をもって仕える
家臣のトップになった。士大夫が家にやって来て、文を作ってくれと頼むことがずっと続いた。外国の
使者もその名を知っていて、しばしば宋先生の御様子はいかがですかと尋ねた。高麗・安南・日本
では、倍ほどのお金を出して文集を買った。さまざまな学者が「大先生」と呼んで、姓氏では呼ば
なかった。白髪頭になるまで侍従でいたけれども、その手柄・爵位は劉基に及ばないが、一代の
礼楽の制作に関しては、宋濂が裁定したものの方が多かった。
その明くる年、□(今の湖北省□帰県の東)で死んだ。歳は七十二。知事の葉以従が宋濂を
蓮花山の下に葬った。蜀の獻王は宋濂の名を慕い、また墓を華陽の城の東に移した。弘治九年
(一四九七)、四川の巡撫である馬俊が次のように奏上した。「宋濂は誠の儒者で国の命運を助け、
著作は模範とすべきである。文章の美しさはとても役立ち、教え導くことにおいて立派である。それ
なのに、久しく僻遠の地にやられ、そのまま墓のなかに埋もれていってしまった。恤録〈注I〉を
加えることを願う。」と。礼部に言いつけて功を論じさせ、宋濂の霊魂を呼び戻し春と秋に葬所に
祭った。正徳年間(一五〇六〜一五二一)に文憲と追諡された。)
〈注@〉(一二九七〜一三四〇)元の浦陽(浙江省)の人。経義に精通し、文詞に優れていた。
〈注A〉(一二七〇〜一三四二)元の浦江(浙江省)の人。学問を好み、儒林四傑の一人と称せられ
る。
〈注B〉(一二七七〜一三五七)元の義烏(浙江省)の人。群書に博通していた。
〈注C〉(一三一四〜一三九〇)定遠(安徽省)の人。明朝創始の功臣。洪武帝のもとに重用された。
〈注D〉(一三一一〜一三七五)明の青田(浙江省)の人。経史に通じ、象緯の学に詳しかった。
詩文に関しては、宋濂と並び称されるほどである。
〈注E〉兵書の名。三巻。黄石公の撰というが、漢書藝文志には著録せず、隋書経籍志に初めて
見えていて、後人の偽作である。上略・中略・下略からなっているので三略という。
〈注F〉(?〜一三八〇)定懐(安徽省)の人。明初の政治家。左丞相にまでのぼった後は、
ほとんど政務の一切を独断専行。
〈注G〉常に側に仕えてお供すること。
〈注H〉国家を興すことに努めること。
〈注I〉経歴・冊籍に気をとめること。
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