「徐福について」−各史書における徐福の記述−

                                  ゼミ生S.S.訓訳


 手許の資料は、まだ少ないのであるが、徐福について研究してみたい
と以前から思っている。というのは、和歌山県の新宮市に、徐福の墓が
あり、郷土史の研究家によっていろいろと研究が為されているのである
が、まだ掘り起こす余地が、多分にありそうだと感じているからである。
今回は、まず研究の手始めとして、各々の史書から、徐福について記述
されている部分を抜き出し、書き下し文と現代語訳を試みてみる。
 徐福は、今から約二千二百年前、秦の始皇帝の命により、不老不死の
靈薬を、蓬莱の国に求めた。大漢和辞典によれば、「秦、琅邪の方士。
史記には徐市に作る。字は君房。始皇帝の命により、童男童女各三千人
を率ゐて長生不死の藥を求め、海に入って遂にかへらず。今紀州熊野に
其の塚と稱するものあり。」と記されている。『史記』卷一百一十八と
『前漢書』卷二十五、『後漢書』卷八十五、それに『仙傳拾遺』にその記載
がある。この他にも『前漢書』卷六十八、『十八史略』卷二に徐福という
記載があるが、ここに記述されている徐福は別の人物である。『仙傳拾遺』
については、資料の収集に至っていないので、今回はとりあえず、『史記』
卷一百一十八と『前漢書』卷二十五、『後草書』卷八十五において、徐福の
記述されている部分をとりあげてみる。

  又使徐福入海求神異物。還爲僞辭日、臣見海中大神、言日、汝西皇
  之使邪、臣答日、然、汝何求、日、願請延年益壽藥、神曰、汝秦王
  之禮薄。得觀而不得取、即從臣東南至蓬莱山、見芝成宮闕、有使者
  銅色而龍形、光上照天於是臣再拝問日、宜何資以獻海神曰、以令
  名男子若振女、與百工之事、即得之矣。秦皇帝大説、遣振男女三千
  人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。
              (『史記』卷一百一十八 淮南衡山列傳第五十八)
  又た徐福をして海に入りて神異物を求めしむ。還りて僞辞を爲して
  日く、臣海中の大神を見るに、言ひて日く、汝西皇の使ひかと、臣答へ
  て日く、然り、汝何を求むるかと、曰く、願はくは延年益壽の藥を請はむ
  と、神曰く、汝が秦王の禮薄し、觀るを得て而して取るを得ずと、即ち
  臣を從へて東南のかた蓬莱山に至り、芝成宮闕を見しむれば、使者有
  り、銅色にして龍形、光上天を照らす、是に於て臣再び拝して問ひて日
  く、宜しく何を資として以て獻ずべきと、海神曰く、令名の男子の若きは
  振女と百工の事とを以てすれば、即ち之を得むと。秦皇帝大いに
  説び、振男女三千人を遣はし、之に五穀種種百工を資して而して行か
  しむ。徐福平原光澤を得、王に止まりて來らず。

   さらに道士徐福を使いとして、毎に赴かせ、神異物を求めに行か
  せましたが、徐福は還ってきて、嘘偽の報告をして言うことには、
  「わたくしが、海の中の大神さまに謁見いたしましたところ、『
  おまえは、西の皇帝の使者であるか。』とおっしゃいますので、払
  が答えて『さようでございます。』と申し上げると、『おまえは、
  何を捜し求めているのか。』とお聞きになりましたので、『延命長
  寿の薬を捜しております。どうか願いを叶えてください。』と申し
  上げますと、大神さまは、『おまえたち秦は礼儀が薄いので、見る
  ことはできても、手に入れることはできないのだ。』とおおせられ
  ました。そこで大神さまはわたくしを従えて、東南の方向の蓬莱山
  へおつれくださいました。そこには霊芝が生えていて、宮殿や楼閣
  が目に入り、仙界の使いの者がいらっしゃり、銅の色をしていて龍
  の形をし、体から発する光が輝いて天を照らしておりました。そこ
  で、わたしは再び拝してお尋ねしました。『どのような品物を御献
  上致したら宜しいのでしょうか。』と…。すると海神さまは、『良
  家の少年少女たちと、さまざまな横械や道具類を献上すれば宜しい。
  そうすれば延命長寿の薬は、得ることができるであろう。』とおっ
  しゃったのです。」と。
   秦の始皇帝は、非常によろこばれて、少年少女三千人を送りだし、
  そのうえに五穀の種々と機械や道具類をそえて、貢ぎ物として、大
  神さまのところへ行かせた。
   徐福は、平らかで広い平野と、豊かで湿潤な沼のあるところにた
  どり着き、その場所に留まって、そこの王となり、再び還ってくる
  ことはなかった。

と司馬遷は記述している。また両『漢書』には、次のような記述がある。

  秦始皇初并天下、甘心於神僊之道、遣徐福韓終之屬多齎童男童女入
  海求神采藥、因逃不還、天下怨恨。
                     (『前漢書』卷二十五 郊祀志第五下)
  秦始皇初めて天下を并せ、神僊の道に甘心し、徐福・韓終の属をして
  多く童男童女を齎し海に入りて神を求め藥を采らしむ。因りて逃れて
  還らず、天下怨恨す。

   秦始皇帝が初めて天下を統一し、神仙の道を得ることに熱中し続
  け、徐福や韓終のやからに、多くの少年や少女を従えて、海に出て
  航海させ、神仙を求めさせ不老不死の藥を採ってこさせようとした。
  このことを利用して、徐福らは出ていったまま還っては来なかった。
  始皇帝も当時の人々もたいへん怒り徐福らを恨んだ。


  會稽海外有東□人。分爲二十餘國。又有夷洲及□洲。傳言、秦始皇
  遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬莱神仙不得、徐福畏誅不敢還、
  遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有
  入海行遭風、流移至□洲者。所在絶遠、不可往來。
                    (『後漢書』卷八十五 東夷列傳七十五)
   會稽の海外に東□人有り、分れて二十餘國と爲れり。又た夷洲及
  び□洲有り。傳へに言ふ、秦の始皇、方士徐福を遣して童男女數千
  人を將ゐて海に入り蓬莱の神仙を求めしむれども得ず、徐福誅せら
  るるを畏れ敢て還らず。遂に此の洲に止まる。世世相ひ承て、數萬
  の家有り、人民時に會稽に至りて市す。會稽の東冶縣の人、海に入
  りて行きて風に遭ひ、流され移りて□洲に至る者有り。在る所絶遠
  にして往來すべからず。

   會稽のはるか海の彼方には、東□人が住んでいる国がある。二十
  余りの国に分かれてあり、そのなかに夷洲島及び□洲島がある。伝
  えられているところによると、秦の始皇帝が、方士徐福を遣として、
  少年少女など、數千人を率いて航海し、蓬莱の神仙を求め探させた
  けれども、ついに見つけ出すことはできなかった。それで徐福は、
  殺されることを畏れて還ってこなかった。結局この島にとどまった。
  時が経って、この者たちの子孫は、代々承け継がれ、人口が増えて
  數万の家々の邑となった。そしてここの出身の者が、時々會稽まで
  ゃって来て商いをしにくることもあった。會稽の東冶縣の人で、海
  に出て航海していたとき、暴風に遭い、流されてしまい、□洲島に
  漂着した者がいたが、□洲島というところはたいへん遠くて、とう
  てい行き来することはできないということである。

 以上、各史書おける徐福の記述部分についてとりあげてみたが、この
他に、『前漢書』卷六十八霍光金日□傳と『十八史略』卷二宣帝のところ
に、それぞれ「今茂陵徐福數上書言霍氏…。」(『前漢書』)「茂陵徐福
上疏言、宜以時抑制、無使至亡…。」(『十八史略』)と徐福なる人物が
登場しているが、『前漢書』卷六十八と『十八史略』卷二の徐福は
「茂陵の徐福」となっており、「琅邪の方士徐福」とは出身も異なり、
時代も前者は西漢で、後者は秦であり、全く別の人物であると考えられ
る。しかし郷土史の研究家諸氏によれば、「茂陵の徐福」も「琅邪の方士
徐福」も同一人物と見なしている者もいる。また、徐福の記述について
も、徐市や徐□と記している史書による相違を「徐福コソ漢ノ代ニシテ、
徐□コソ秦ノ代ノモノナリ」という説を唱えている者もいて異説まちまちで
ある。この点については、今後各史書の精確な考証が必要であると考え
ている。
 これらの史書の記述よると徐福という人物が存在し、神仙の住む蓬莱
山に不老不死の薬を求めて、東の海へ出帆し還ってこなかったということ
はほぼ事実であると考えてもよいのではなかろうか。ここ熊野では、本州
で熊野にだけ自生する烏薬、捕鯨、煙草(ほねぎり)の栽培、紙漉き(徐福
紙)等が、徐福によって伝えられたと言われているが、徐福が東に出帆し、
黒潮に乗り、熊野に漂着したという一つの仮説を、私は素朴に受け止め、
微力ながら、今後も調査研究を続けていきたいと思っている。

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