「韋應物傳」

南宋、沈作□(字は明達)補撰
ゼミ生 K.N.訳
韋應物は、都のある京兆府長安県の人である。彼の家系は、宇文周王朝
(北周)の時に韋孝寛が手柄を立てて名を挙げ将軍や大臣になった時から
はじまるが、その兄の韋夐は高尚を保って出仕せず、逍遙公と呼ばれている。
夐の孫である韋待價は隋王朝に仕えて左僕射となり、扶陽公に封ぜられた。
待價から韋令儀が生まれ、唐の司門郎中となった。令儀から韋鑒が生まれ、
鑒から韋應物が生まれた。
韋應物は青年時代に大学で学び、開元(七一三〜七四一)から天宝年間
(七四二〜七五六)にかけて玄宗皇帝の宮廷内に仕え、皇帝の側にいた。
皇帝が御幸する際には、先払いを仰せつかい、いささか男気があって勢いを
頼んでいたが、漁陽の兵乱(安史の乱)の後は、落ちぶれて職を失った。そこで
改めて節を変えて勉強を始め、武功の山寺にうつり住んだ。
再び故郷の□水のほとりに戻った時には、田畑や家屋は荒れ果て、財産も
無くなって、生業を営むすべがなかった。そこで江水・淮水のあたりに旅に出、
当時の名士たちと交友関係を持った。韋應物はそれで河陽県に仕事を得、
京兆府の功曹となり、高陵県の知事となっていった。
永泰年間(七六五〜七六六)に、洛陽の副知事にかわった際、左右両軍の
騎馬兵が宦官と結託し、権勢を得て勝手気ままに振るまい、庶民を傷つける
ようなことがあった。韋應物はそれに心を痛め、法律で厳しく取り締まるように
進言したところ、逆に訴えられたが、屈せず、官職を捨て、同徳精舎にひき
こもった。
復職して□県の知事となる。
大暦十四年(七七九)に櫟陽県の知事となったが、また病気で辞め、帰省
して西の郊外に寓居し、景勝地を選んで善福寺に引退し、諸生といっしょに
勉学し、澹然とした気分で過ごした。
建中二年(七八一)、中央の尚書比部員外郎に抜擢され、明くる年、□州
刺史(州知事)として地方に出た。□州の山や川はどこまでも遠く清らかで、
山には隠者が多く住んでいた。韋應物は風流人であるが、彼らと物見遊山を
して詩を作っていただけではない。彼の州政のおかげで郡内は何事もなく、
人々は平和を楽しんだ。
建中四年(七八三)の十月に、朱□の兵乱によって徳宗皇帝が奉天に逃れ
た時、韋應物は郡(州都)から使いを遣わし、間道から走って行在所まで行か
せ皇帝の安否を問うた。明くる年の興元元年(七八四)、使いが詔を持って還り
彼の忠義を誉めてくれたが、ともあれ、ますます貧しくなって帰省できず、郡の
南にある小高い岩山に留まった。
間もなく江州刺史に抜擢され、二年ほどして都に呼びもどされた。
貞元二年(七八六)に、中央官の左司郎中補外から蘇州刺史となり、郡
(州都)の役所では、その土地の優秀な民には礼を尽くし、孤児や寡婦を
いたわった。白居易が中書舎人から地方官に出て呉郡(蘇州)の知事になると、
韋應物は知事を辞め、郡内の永定精舎に寓居した。
大和年間(八二七〜八三五)に、太僕少卿兼御史中丞であったという資格
で、諸道塩鉄転運江淮留後となった。年は九十何歳かであり、いつ亡くなった
のかは分からない。韋慶復という息子があり、監察御史河東節度掌書記と
なっている。
韋應物の為人は高潔で、詩がうまく、気質はのんびりとして軽妙であり、詩と
性格とが一体化した天賦のものである。詩は初めから技巧は用いていないかに
見え、それでいて先ごろの詩人では及ぶ者がいない。白居易は以前、元□に
「蘇州刺史であった韋應物の歌行は才能の華鹿さばかりでなく、奥深く風刺の
意が込められている。五言詩はとりわけ高尚ですっきりとした上品さがあり、
それなりに一家言を成している。彼が当時の人に推奨され重んじられたのは、
そういうことだからだろう」と語っている。
仏教僧である皎然という人は、ある程度近体詩がうまかった。以前、韋應物
のスタイルに真似て詩を何首か作り、手土産として韋應物のところに持参した
ことがあるが、韋應物はうまいとは認めなかった。明くる日、前に作った独創
的な詩を集めて持参して見せたところ、はじめて納得してもらい、「人にはそれ
ぞれ出来る出来ないがある。思うにそれは、天分によるものだろう。学ぶ(真似
る)力には限界があり、あなたはあなたであって私ではない。そういうことをし
ていると本来のあなた自身の歩き方まで見失ってしまう。自分で行き着いた
ところを自分だとすれば、それで好いのではないか」と言われ、皎然は心底
感服している。
韋應物は少食で欲が無かった。居る所では香を焚き、きれいに埃を払って
から坐った。呉門(蘇州)の知事をしていた時には、すでに年老いていたが、
詩はますます細部にまで工夫がゆきわたっていた。しかし、世の中にそれが
分かる者はいなかった。
歴史家であるわたくし沈明遠も、最後に言っておきたい。
私が韋應物の詩を読んでみたところ、人並み遥かに超えてすっきりと奥深く、
魏の正始年間の風格がある。所謂「底穴を大きくとった朱絃の琴は音色が
ゆったりし、一回歌えば三度感動する」である。昔、韋應物は開元・天宝年間
に玄宗皇帝の側仕えをし、郎中・刺史となったのは、建中年間から貞元年間
までだが、文宗皇帝の大和年間に、劉禹錫がもとの職にもとづいて韋應物を
推挙している。齢九十何歳かになるのに、それでも転輸という激務をこなした
とは、韋應物はなんと長生きで健康であったことか。ところが呉郡(蘇州刺史)
より以後、記録に残っている詩文が見当たらない。それは失われてしまった
のだろうか。もし韋應物が亡くなっていなかったのであれば、作品はこれだけ
に止まらないはずだ。韋應物が呉郡に勤めた後に亡くなったとすれば、劉禹錫
の推挙した人は、老いてもなお元気であったことになる。思うに、これ以上の
考察はできないだろう。『新唐書』の文藝伝に「韋應物は詩文が世間に流布し
ていたが、歴史家が彼の伝記を散逸させてしまったため、記載しなかった」と
言っている。私は彼の詩が大好きで、編年を考えてみた。彼のふだんの行い
や官僚としての業績は、全て拠り所がある。姑めから終わりまで概ね見ること
のできたところは以上の通りだが、歴史家の編纂に遺漏があったことだけが
残念だ。ああ、韋應物は多難で盛衰変化のある人生を体験し、年がいって
から節を変えて勉強した。今や、彼の詩はおおかた道を治めたものであり、
至りついた理念は精確で奥深い。一人前の男子とは悔やむことがあり、また
厄災に遭い、それではじめて抜群の人物となる。そのような韋應物だからこそ
自らを表現し、後の世に名を現したのだ。それは、決して偶然ではない。
