中華贋作詩選 ―― 擬「客從遠方來」詩の系譜 ――

 
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 (中国の本歌取り、あるいは目下の研究テーマ)


 何はさておき先ず、以下に紹介します「贋作詩」という言い方につきましては、正しくはそのような
呼称の無いことを、あらかじめお断りしておきたいと思います。研究者は、「擬古詩」とか「擬作詩」
とか、人によっては「模倣詩」という呼び方を、通常はしているはずです。詩はその内容をそっくり
そのままコピーしますと、オリジナルそのものになってしまいますから、複製を贋作と言うことは
出来ません。同じ芸術作品とはいっても、絵画や美術品といささか異なる点がそこにあります。
呼称も、おのずから違ってきます。ここではフェイクな観点を意識しての呼称であることを、ご了解
頂ければ幸いです。
 中国の贋作詩(擬作詩)は、あらかじめ某の模倣であると断って作ります。詩人がなぜそのような
文学的な営みを為すのかは、よくは分かっていません。習作ではないかとか、共感を示すためであろう
とか、批評行為ではないか、あるいは古人に仮託したカムフラージュではないかとも言われています。
いずれにしましても、模倣という手法を採らなければ表現できない何か(思い)があったことは間違い
ないでしょう。しかし、それがどのようなことかは、依然判然としないというのが正直なところです。
 創作動機について一つ言えることは、美術品の贋作と同様、こんなにも上手く真似できたという
ことを万人に示したい思いがあるのではないか、ということです。
 どれほどの出来映えを示し得るのでしょうか。
 以下に、贋作詩を収輯して楽しんでいる中で、面白いと思ったものを一つ紹介します。
その第一は、唐の李白の「擬客從遠方來詩」(「客遠方より来たる」に擬する詩)です。

 (テキストファイルですので、JISコードにない文字は□で表示してあります。)

  仙人騎綵鳳  仙人綵鳳に騎り
  昨下□風岑  昨下る□風(らうふう)の岑
  海水三清淺  海水三たび清く浅く
  桃源一見尋  桃源一たび尋ねらる
  遺我緑玉盃  我に遺る緑玉の盃
  兼之紫瓊琴  之れに兼ぬ紫瓊の琴
  盃以傾美酒  盃は以つて美酒を傾け
  琴以閑素心  琴は以つて素心を閑かにす
  二物非世有  二物は世有に非ず
  何論珠與金  何ぞ珠と金とを論ぜんや
  琴彈松裏風  琴は弾く松裏の風に
  盃勸天上月  盃は勧む天上の月に
  風月長相知  風と月と長く相知れば
  世人何倏忽  世人何ぞ倏忽たるや

 李白のような大物詩人が物真似なんかをするのかと驚かれるかも知れませんが、モーツアルトや
ピカソ同様、実はかなりやっています。この贋作の本歌(「原詩」)は、後漢の無名氏の「古詩十九首」
其十八「客從遠方來詩」(「客遠方より来たる」詩)です。

  客從遠方來  客遠方より来たり
  遺我一端綺  我に遺る一端の綺
  相去萬餘里  相去ること万餘里
  故人心尚爾  故人心は尚ほ爾り
  文彩雙鴛鴦  文は彩る双鴛鴦
  裁爲合歡被  裁ちて為す合歓の被
  著以長相思  著くるに長相思を以つてし
  縁以結不解  縁どるに結不解を以つてす
  以膠投漆中  膠を以つて漆中に投ずれば
  誰能別離此  誰か能く此れを別離せんや

 この本歌を李白は、もとが分からないくらいに演繹していますが、「遺我……」や「以…以…」等
の形式的な特徴を借りていること等を手がかりに、よく読み込んでみますと、結局本歌と同じ
論理のもと、同じようなことを言っていることに気づきます。そこで、替え歌であることも分かります
(詩も、贋作の鑑定にはある程度の目利きが必要です)。
 李白のこの贋作(替え歌)には、面白いと思える点がたくさんあります。
 本歌は男女の愛別離苦を詠んでいます。李白はその夫婦関係を、なんと自分と風・月との関係
に演繹しています。そして、本歌では旅人に頼んで伴侶に鴛鴦(おしどり)の文様のはいった布を
届けているのに対し、李白は仙人が届けてくれた琴・盃を風・月に贈っています。この贈り物
はそれぞれ意味があります。夫婦の結びつきを表す鴛鴦と同様、盃・琴も李白と風・月とを結び
つけることを意味しています。
 もう一つ、本歌ではさらに鴛鴦の文様の布に「長く相思ひ、結びて解けず」という縫い取りおよび
縁取りを施し、膠(にかわ)と漆で固めて離れないことを強調しているのですが、李白も、盃・琴を
この世に二つと無い仙人からの授かり物であるから、珠玉や黄金以上に真心を伝え得ること言う
までもないとして、風・月を永遠の知己としてしまってます。李白と風・月との関係はそのようにして
出来上がったということが、よく分かります。
 面白い発想に基づく模倣であると思いますし、いかにも李白らしい文体で演繹されています。
 では、李白が模倣によらなければ表現できなかったこととは何でしょうか。李白の贋作は、それだけ
でも十分に徒詩(模倣によらない詩)として鑑賞に堪えます。それを本歌とダブらせますと、少なくとも
李白と風・月との関係は夫婦関係に等しいことになります。さらに古来、夫婦関係は君臣関係にも
喩えられますから、ひょっとしたら李白は自分と玄宗皇帝か永王との関係を詠もうとしたのかも知れ
ません。玄宗が風・月に喩えられると言ってしまうと、どうもしっくり来ない気もしますが、確かに上手い
と言える作品に仕上がっているようにも思います。

 実は、この「客從遠方來」詩を本歌とする贋作は、李白だけでなく、李白以前にも以後にもたくさん
あります。
 李白以前の作としては、劉宋の謝惠連(元嘉の三大家のひとり謝靈運の族弟)の「代古」詩
(詩題を「擬客從遠方來」に作る場合もある)が、それです。

  客從遠方來  客遠方より来たり
  贈我鵠文綾  我に贈る鵠文の綾
  貯以相思篋  貯ふるに相思の篋を以つてし
  緘以同心繩  緘づるに同心の縄を以つてす
  裁爲親身服  裁ちて為す親身の服
  著以倶寢興  著くるに倶寢の興を以つてす
  別來經年歳  別れてより来のかた年歳を経るも
  歡心不可凌  歓心は凌ぐべからず
  瀉酒置井中  酒を瀉ぎて井中に置けば
  誰能辨斗升  誰か能く斗升を辨ぜんや
  合如杯中水  合すること杯中の水のごとくんば
  誰能判□□  誰か能く□□(しべん)を判ぜんや

 謝惠連は夫婦関係を交友関係で演繹しています。とりわけ、本歌の「膠」と「漆」を「酒」と「水」で
演繹し、混ぜれば分離できないと強調している点は、面白い発想であると思います。演繹する
(模倣者の論理で言い換える)のにどのような表現を持ってくるかが、腕の見せ所です。

 また同じく劉宋の鮑令暉(元嘉の三大詩人のひとり鮑照の妹)にも、擬「客從遠方來」詩が
あります。

  客從遠方來  客遠方より来たり
  贈我漆鳴琴  我に贈る漆の鳴琴
  木有相思文  木には有り相思の文
  弦有別離音  弦には有り別離の音
  終身執此調  終身此の調べを執り
  歳寒不改心  歳寒も心を改めず
  願作陽春曲  願はくは陽春の曲を作り
  宮商長相尋  宮と商のごと長く相尋がん

 ずいぶんすっきりと演繹されています。

 次の唐の韋應物の贋作は、李白の後に来るものです。

  有客天一方  客有り天の一方
  寄我孤桐琴  我に寄す孤桐の琴
  迢迢萬里隔  迢々として万里に隔たるも
  托此傳幽音  此れに托して幽音を伝ふ
  冰霜中自結  氷と霜と中に自ら結ぼれ
  龍鳳相與吟  龍と鳳と相与に吟ず
  弦以明直道  弦は以つて直道を明らかにし
  漆以固交深  漆は以つて交はりの深きを固む

 鮑令暉と同様の「琴」に交友関係を守ろうとする思いを託しています。その際、「氷」と「霜」および
「龍」と「鳳」 の関係で演繹し、さらに「幽音」という琴の音質とそれが伝える「直道」を明示すること
によって、確固たる交友関係を強調する点に特徴があります。「幽音」と「直道」は、交友というよりも、
ともに政治上での同志の間で交わされるものという色合いの濃いものです。ともに韋應物の愛用した
常套語彙であり、直言の通らない上司へ の韋應物らしい風刺が髣髴とさせられます。

 時代はさらに降りますが、なんと宋の朱子(朱熹)にもこの贋作があります。

  夫君滄海至  夫の君滄海より至り
  贈我一篋珠  我に贈る一篋の珠
  誰言君行近  誰か言ふ君が行(たび)は近しと
  南北萬里餘  南北すること万里餘なり
  結作同心花  結びて作す同心の花
  綴在紅羅襦  綴りて在り紅の羅襦
  雙垂合歡帶  双つながら垂る合歓の帯
  麗服眷微躯  麗服は微躯を眷る
  爲君一起舞  君がために一たび起ちて舞へば
  君情定何如  君が情定めて何如

 森鴎外の愛好した明の高啓(高青邱)にも有ります。

  美人一相見  美人一たび相見
  遺我白玉環  我に遺る白玉の環
  上有雙雕龍  上には有り双雕の龍の
  遊戲在雲間  遊戯して雲間に在る
  持此感深意  此れを持して深意に感じ
  佩結無時間  佩び結びて時の間(へだ)つ無し
  玉以比貞潔  玉は以つて貞潔に比し
  環以明不絶  環は以つて絶えざるを明らかにす
  雲龍永相從  雲と龍と永く相従へば
  誰能使離別  誰か能く離別せしめんや

 高啓は韋應物を崇拝していましたので、その手法を承け継いでいるように見えます。「美人」
の語で詠み始めてはいるものの、「貞潔」の語があることで、作詩の背景には應物同様に
政治色の濃さが感じられます。「龍」の象徴性と「環」の質感およびその「貞潔」という語をもって
演繹することで、交友関係をよりいっそう確かなものにしようとする意志を明示しているように
思えます。本歌の持ち味は、双龍にさらに雲竜の概念を付与することで演繹されています。

 同じく明人の擬作には、ほかに錢宰のものもあります。

  故人萬里別  故人万里に別かれ
  海水日夜深  海水日夜に深し
  南風海上來  南風海上より来たり
  遺我雙南金  我に遺る双南金
  不見故人面  故人の面を見ず
  乃見故人心  乃ち故人の心を見る
  鑄作黄金徽  鋳て作る黄金の徽
  置之白玉琴  之れを置く白玉の琴
  彈爲別鶴操  弾きて別鶴操を為し
  間以懷湘吟  間ま湘を懐ふの吟を以つてす
  曲終聽者稀  曲終はりて聴く者稀なれば
  矯首望知音  首を矯げて知音を望む

 明末清初のひと王夫之(王船山)にも有ります。

  昔我遊日南  昔我日南に遊び
  中道至合浦  道を中ばにして合浦に至る
  池水碧以寒  池水碧にして以つて寒く
  靉靆莫能睹  靉靆として能く睹る莫し
  得此徑寸珠  此の徑寸の珠を得るは
  云自鮫人所  鮫人の所よりすと云ふ
  緘以金泥封  緘づるに金泥の封を以つてし
  藉之龍文組  之れに龍文の組を藉く
  中夜投君懷  中夜君が懐に投づれば
  當知寸心苦  当に寸心の苦しきを知るべけん

 「鮫人」は、泣くと真珠の涙を流すという人魚です。陸に上がった人魚は、ある主人の家に
置いてもらうことになり、そこで絹を織り、それが売れます。いよいよ主人と別れることになり、
主人に涙の粒を遺して去ってゆきます。王船山はこの伝説を用い、意中の人への苦しい思い
を演繹しています。

 のちに王船山の学舎の主講となった清の王□運(おうがいうん)にも、この贋作があります。

  客從遠方來  客遠方より来たり
  遺我鴛文綺  我に遺る鴛文の綺
  別時未云久  別れし時は未だ久しとは云はず
  感君念如此  君が念ふこと此くのごときに感ず
  裁成見新故  裁ちて成せば新故を見はし
  藏之誰見美  之れを蔵すれば誰か美しきを見ん
  發篋三躊躇  篋を発きて三たび躊躇し
  使我中夜起  我をして中夜に起きしむ
  時俗妬眞交  時俗は真の交はりを妬み
  嘆息我與爾  我と爾とを嘆息せしむ

 世俗とは「真の交はり」を「妬む」もの、だからといって、あなたからの贈り物をしまっておけば
その美しさを人に知らせることが出来ず、新調のものとして身につければそれと分かって妬まれ
る、そのために私は悩まされるのです、と言う。
 本歌が二人の関係を強めたがっている理由は、他人の嫉妬によって二人の関係が壊される
現実が存在するためであるという指摘に繋がり、本歌の本質をそのように演繹したがっている
王□運が垣間見られます。

 さて、以上、かくも多くの優れた詩人たちが、しかも二千年近くの長きに亘って、このような
贋作を作り続けている現実をどのように説明たらよいのか、文学的な営為における模倣の意義と
はどのようなものなのか、目下その説明の方法を考察中というところです。