西行と無常観―「王法の無常」をめぐって―」(台湾・輔仁大学第5回中世学術シンポジウム「日欧中世文学における無常観」での発表、2004.3.27

                   山口の部屋TOPにもどる


    西行と無常観―「王法の無常」をめぐって―  兵庫教育大学 山口眞琴

 

 『方丈記』や『平家物語』などの日本の中世文芸が、いわゆる無常観の受容や表出においてピークとなるなかで、13世紀後半の仏教説話集『撰集抄』も、著名な平安末期の歌僧西行を語り手として、きわめて詠嘆的・情緒的な無常観を表していたが、見逃せないのは、そこにはすぐれて歴史的・政治的な現実をふまえた無常へのまなざしが介在したことである。その特徴とは、例えば天竺の祇園精舎などの荒廃を目の当たりにした玄奘説話(巻6第1)の後半に、同じく渡天を志して虎に食われた高岳親王の話を配した上、薬子の変で廃太子となった彼の前歴に基づき、「あにはかりきや、錦のしとねを出て、飾りをおろすべしとは。かけても思はましや、他国のおどろが下に骨をさらすべとは。これ世の中の定めなくはかなき例なるべし。」と、天竺の仏法衰退という当初の主題から逸脱して、語り手に述懐させたところに窺えるものである。これに続く同第2話も、皇子に恵まれなかった後冷泉院とその后の同日死去の話題をはじめ、替わって即位し遅い春の悦びを味わった後三条院もわずかその六年後に死去、その後三条院と対立した摂関家の藤原頼通・教通もまた相次いで没したという話を物語る。高位者・権力者の死や不遇を無常の例とするのは常套ではあるけれど、『撰集抄』はむしろ王法世界の中心にいた人々の無常(以下「王法の無常」〔注1〕)そのものを凝視したと観察される。とくに第2話の内容は、ほぼ史実通りではあるものの、後冷泉院の后(後一条内親王章子、頼通の娘寛子、教通の娘歓子ら)の死が事実確認できない、というその一方で、後三条院・頼通・教通の三年連続の死に関しては、さらに道長時代の摂関家の栄華をもたらした上東門院彰子が、頼通と同じ年に死亡したという事実も加わるはずが、それは省略されたことになる。皇位継承問題を中心に、摂関期から院政期に向かう複雑な政治情況を相対化する意図のあったことは、そこに明らかだろう。

 そのほか七条皇后(巻1第4)、後冷泉院(巻4第5、史実は後一条院)、待賢門院(巻5第6)、郁芳門院(巻6第11)、近衛院(同第12)という多くの皇室関係者の死を取り上げ、それに随った縁者の遁世説話を語る『撰集抄』は、待賢門院の例(実際は落飾に随った女房の遁世)が示唆するように、自らの主題としての遁世を「王法の無常」に対置させながら、それを超克するものとして意味づけたのではないか。そう考えられる最大の理由は、同趣に創作された真誉(巻2第2)と覚英(巻9第11)の説話において、鳥羽院第八皇子とされる前者は近衛院や崇徳院に、藤原忠実の弟とされる後者は忠実の子忠通・頼長らに、それぞれ重ね合わされることで、二人の遁世・往生の意義が保元の乱をめぐる「王法の無常」との鮮やかなコントラストにおいて導かれる点にある。

 そのような趣向を発想する拠点が、讃岐白峯にある崇徳院の墓に詣でた西行が、その荒涼たる様子を見て盛衰の転変を歎き、あらためて保元の乱での崇徳院や頼長の無惨な姿を回想的に語る説話(巻1第7)にあったことは、いうまでもない。そこで強調されるのは、西行がそれらの無常を実際に目撃したという事実である。歴史の証言者のようなその位置づけにこそ、語り手が西行であることの必然性も保障されるに違いない。その意味では、『撰集抄』の「王法の無常」へのまなざしも、実在の西行にまで遡れるように思われる。そもそも、保元の乱に関する西行の問題意識がいかに尖鋭であったかは、晩年の『宮河歌合』の32番で、鳥羽院(1156年没)葬送歌の「道かはるみゆきかなしきこよひかなかぎりのたびとみるにつけても」と、崇徳院(1164年没)追悼歌の「松山の浪にながれてこし舟のやがてむなしくなりにけるかな」を番えたところに察知できる。むろん崇徳院個人に対しても、『山家集』関連歌群が示す通り、極めて緊密な関わりをもっていた。とくに『撰集抄』にも引かれる「よしや君昔の玉のゆかとてもかからん後は何にかはせむ」(『山家集』1355)という、叱責するような和歌に感じ取られる「導師としての威厳」〔注2〕は、まさに「王法の無常」の語り手にふさわしいものであった。

 もっぱら和歌というメディアの特性に負うていたとはいえ、その導師西行の実現にとって、彼がいわゆる善知識を常態としてつとめたことの意味も大きい。その対象は、同行の遁世者だけでなく、生前の崇徳院をはじめ、藤原成通、源雅定、藤原公能、待賢門院の女房たちなど、貴顕やその周辺に及んだことが知られるが、それと関連して注目したいのは、西行には墓所や葬送に関する和歌が比較的多く、しかも皇室関係のそれが少なくないことである。前掲の鳥羽院葬送歌や崇徳院墓参詣歌のほか、近衛院(1155年没)墓で詠んだ「みがかれし玉のすみかを露深き野辺にうつして見るぞ悲しき」(『山家集』781)、二条院(1165年没)五十日供養の墓で詠んだ「こよひ君死出の山路の月を見て雲の上をや思ひ出づらん」(同792)などがあり、いずれも生前の宮中生活との懸隔をモチーフとする。そこに「王法の無常」を凝視する萌しがありはしないか。さらに一連の待賢門院(1145年没)追悼歌や美福門院(1160年没)高野山納骨の歌などを含めて見ると、少なくとも西行が積極的に彼らの生死の無常に関わろうとしたことがわかる。その志向性は、無常に関する西行和歌の特徴の一つとして、「死にて伏さん苔のむしろを思ふよりかねてしらるる岩陰の露」(『山家集』850)などに見出される「死の意識」〔注3〕の表出と無関係ではなかろう。墓所や葬送の現場に立ち会うという、死の領域との交渉を重ねることで、西行は自らの無常観をすぐれて歴史的リアリティのあるものに差別化したのではなかったか。

 思えば、西行が讃岐白峯に赴いたのは仁安三年(1168年)のこと。なぜ崇徳院生前の訪問ではなく死後の墓参であったのか。その事情に関しては、怨霊・鎮魂のことばかりが強調されるが、上記のような西行の志向性からとらえ直すこともできるように思われる。

 

〔1〕山口眞琴「王法の無常―『撰集抄』における遁世―」(『源氏物語の内と外』風間書房、1987年)→山口眞琴『西行説話文学論』(笠間書院、2009年)。

〔2〕近藤潤一「中世和歌の転位―西行の場合―」(『日本文学史を読む3中世』有精堂、1992年)。

〔3〕高木きよ子『西行の宗教的世界』(大明堂、1988年)「無常感と死の意識」。