モノでありたきは『本』(『Listen(兵庫教育大学附属図書館広報誌)Vol.12006.11

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   モノでありたきは「本」         社会・言語教育学系 山口眞琴

 

 いったい私は何にこだわっているのか?

 すでに試みられつつある「電子図書館化」は、10年後さらに加速度的に進んでいることだろう。電子書籍・電子雑誌の増加、既存の図書資料のデジタル化、それらの情報資源を登録・保存するデジタル・アーカイブの構築・整備。概ね歓迎すべき事態に違いない。私の専門分野から言えば、既存資料のなかでも、写本・版本の貴重書や絵巻等の画像資料がデジタル化され、ネットでの公開利用が図られるのは、この上なく有り難い。最終的には原本調査が不可欠だが、さしあたっての閲覧の利便性は、従前のマイクロフイルムなどとは比較にならない。また、近代の書物でも、もはや入手・閲覧が困難な明治期のものなどは、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」のように、簡単にパソコン画面で見ることができ、印刷やダウンロードも可能になりつつある。絶版書の復刊に相当するデジタル化は、大方の支持を集めることだろう。そこへ、今後あらたに出される電子書籍の類を加えていけば、紙に印刷された「本」を凌ぐ図書資源になることは疑いない。やがてデジタル書籍が「本」を駆逐してしまう日も、そう遠くないのではないか。

 先日、米国の某レコード会社が、ネットによる音楽配信のあおりを食って、経営破綻に追い込まれた。もともとジャケットなどへの関心が薄かった国柄、CDパッケージに執着する向きも少ないようだが、その傾向は最近の日本にも当てはまるらしい。携帯やパソコンに直接ダウンロードして楽曲を楽しむ人が急増しているとか。同じパッケージ・メディアによる電子書籍もいつしか姿を消すように思われる。生き残るのは、そのままネット上を自在に流通するデジタル情報としての書籍だけではないのか。情報の消失防止、長期保存、完全性・互換性の確保といった喫緊の課題を抱えてはいるものの、早晩それらも克服されることだろう。いよいよ「本」のない図書館の出現だ。いや、それならオフィスや自宅のパソコンで事足りる、もう図書館は要らないのではないか、ということにもなりかねない。図書館の命運は、未来にむけ「本」の延命を図るのか否かにかかっていそうだ。

 如上ことさら「10年後の図書館」の悪夢を描くことで、何とかそれに待ったをかけたいと企んだ自分が、今いかに形あるモノにこだわっているかがわかる。フェティシズムの一語では片づけられないそれは、これまで「本」の形態よりはるかに内容を重視してきた私自身、驚くほど新鮮な感覚だ。「本」が絶対・不動のモノであることを、自明の前提にしてきたせいだろう。そうでなくなる危機に瀕して、「本」は初めてのように自己主張する。モノであることが内容価値を支えてきたのだ、と。はたして、モノならざる本に同じような力が期待できるのか、心もとない。そもそも、モノであるとは歴史的存在であること。その意味で対等と言ってよい人と「本」は、時に歴史的事件のごとき出逢いを実現する。その僥倖の根っこに、堅固なモノの世界が広がっていることを忘れてはなるまい。

 そういうかけがえのない構造を壊して、あとは野となれ山となれ、では困るのだ!