「古典世界の魅力とひろがり」(『教科専門に関する文献案内 2003』所収、2003.2)

古典を読み学ぶことの意義を考える ▼古典の面白さを味わい楽しむ

さまざまな古典世界を読む ▼古典文化のひろがりを旅する

古典理解のための基礎知識を身につける

生きた古典を観に行こう


                                山口の部屋TOPにもどる
 教養としての古典は必ずしも原文で読まなくてもいい、と思う。現代語訳でもよし、いわゆる「マンガで読む古典」でもよかろう。まずは、その古典世界を知りたいという欲求が大切であること、いうまでもない。本来そこから古典学習もはじまるはずだが、実際にはおおむねそうはなっていない。古典が教材としてあるから、それが試験に出るから、といった外的理由でしかたなく勉強するのが実情であろう。入り方はそれでもいいんじゃないかと思うけれども、なんだかんだ言って、その学習を強いる側の教師や親たちからすれば、もう少しまっとうな動機づけや理由づけがないものか、というのも人情である―などといった話題を枕に、ここでは日本の古典文学を中心にして、古典世界の面白さを味わうには、どのような書物が参考になるのか、あるいは、広く日本の古典文化というものの魅力を知るには、どういった有益な文献があるのか、以下、僭越ながらそのあたりの道案内を試みることにしたい。

【古典を読み学ぶことの意義を考える】
 さてさて、本当に古典を読んだり学んだりすることの意義は、どこにあるのだろうか。もともと古典が「面白くて大好き」というのであれば、そんな議論は野暮というものだが、相変わらず高校などの教育現場では、「古典なんかどうして勉強しなくちゃいけないの」という不満の声が多いと聞く。これに対し、「貴重な文化遺産だから」と頭ごなしに押さえにかかっても説得力がない。「われわれの祖先にあたる昔の人の考え方や感じ方を学ぶことは重要である」なんてのは、「自分のルーツ探し」みたいでいい線いっているが、何かが足りない。「でも、いま生きていくのに古典なんか何の役にも立たないじゃない」と言い返されたら、どうするのか…。
 じつは古典を読み学ぶことは、いまの自分の生き方に深く関わる。一言で言えば、〈近代主義や現代思想の相対化〉という意義をもつ。多くの人は、個人的にも社会的にもよりよい明日を築きたいと願っている。それには当然いまの姿がどうなっているかを知らねばならないが、これが簡単にはわからない。そこで古典世界に分け入ってみる。すると、鏡に映し出されるように、いまの姿がはっきりとしてくる。それと同時に、私たちが普遍的だと思って疑わないものの感じ方、考え方、価値観などが、必ずしもそうではないということがわかるし、時にその歪んだところやおかしな点まで見えてくる。いわゆる異文化理解が自らの文化状況を再認識させてくれるのと同様、古典学習はいまの自分の生き方を見つめ直させてくれるのである。
 たとえば、日本的教養のあり方に迫った稲賀敬二『文学誕生』(PHP研究所、1983年、品切れ)は、物語などを書くきっかけは外から与えられることが多い、という前提に立って、古代・王朝人の知的生活と物語生産システムの解明を試みる。内的必然性を崇拝する近代人と違って、与えられたきっかけにどう対処していくかが、古代・王朝人の新しいものを生むか生まないかの分岐点であった。翻って、私たちの創造的な営みにおいても、内発的動機などの必然性がはたして不可欠なのかどうか、一度は問い返してみたいものである。

【古典の面白さを味わい楽しむ】
 それにしても、古典も面白くなければつまらない。本当に面白いのかどうか、どのあたりが面白いのか、そしてその面白さをどう伝えるのか。とりあえず、古典世界を面白く読み解いてくれる書物をのぞくに如くはない。
 たとえば高橋昌明『酒呑童子の誕生』(中公新書、1992年、品切れ)は、大江山の鬼退治でよく知られる酒呑童子説話を文字どおり多角的に検証、そのなかで中世社会の内と外、中心と周縁、境界や排除に関わる諸問題に鋭く迫る。童子の正体=疱瘡神を探求する作業そのものが、謎解きの面白さにあふれて文句無しに楽しい。およそ説話は平明素朴な印象が定着しているが、じつはかなり複雑で奥が深い。そのことを実感するのに一番のお薦めは、小峯和明の『説話の森』(岩波現代文庫、2001年、1100円)や『説話の声』(新曜社、2000年、2400円)。天狗からイソップまで多彩な説話世界の深層に分け入り、さまざまな声をたよりに説話の発生現場に立ち会うような醍醐味が味わえる。
 謎解きということなら、三浦佑之『浦島太郎の文学史』(五柳書院、1989年、品切れ)は、奈良時代の資料をはじめ各時代の文献に記されているあの昔話「浦島太郎」を、じつは伊預部馬養によって創作された恋愛小説(神仙思想をもとにしたポルノグラフィー)が起源であると論じて、民間伝承とする通説をくつがえして見せる。また、十二世紀前半頃とされるその成立から、江戸幕末に及ぶ権力者たちとの結びつきまで、国宝『源氏物語絵巻』をめぐる謎に迫るのが、三谷邦明・三田村雅子の(その名もずばり)『源氏物語絵巻の謎を読み解く』(角川選書、1998年、1600円)。とくに絵巻の場面選択に白河院の宮廷スキャンダルが風刺されていたという新説からは、物語と現実のボーダーレスな関係が知られて興味深い。いずれも結論への賛否はともかく、謎解きのプロセスそのものを味読してほしい書物である。あるいは、同じく平安時代の末=院政期に生きた〈文狂〉の大江匡房が書き残した『洛陽田楽記』『傀儡子記』『狐媚記』等の多くのテキストから、不老不死の霊薬を調合する煉丹術にも似た不可思議な〈知〉の戦略をあぶり出す深沢徹『中世神話の煉丹術』(人文書院、1994年、2400円)のように、特定の人物の精神や思想のあり方を通して、とくに院政期のような転換期の時代的興奮に触れるのもまた楽しかろう。その意味では、院政期後半の主役をとりあげた棚橋光男『後白河法皇』(講談社選書メチエ、1995年、1456円)をはずせない。巻頭の「後白河論序説」には、藤原頼長や信西入道についても生彩に語られる。
 もちろん説話や人物だけでなく、『源氏物語』『無名草子』『とはずがたり』『庭の訓』といった多様な古典作品を、「父と娘」を視点的なテーマとして根底から読み直すやり方だってある。田中貴子『日本ファザコン文学史』(紀伊國屋書店、1998年、1600円)がそれだが、この著者には、一般読者によく配慮した古典に関する書物がたくさんある。その最初に書かれたのが『〈悪女〉論』(紀伊國屋書店、1992年、1748円。『悪女伝説の秘密』〔角川ソフィア文庫、2002年、667円〕はその改題本)で、奈良時代最後の女帝で醜聞にまみれた称徳天皇、鬼にとりつかれたという平安時代の染殿后、道成寺縁起で有名な龍蛇と化した女など、古典世界において作られたそれら〈悪女〉の生成メカニズムを解明しようとしたもの。すぐさま現代思想の問題に結びつきそうだが、ともあれこうした魅力的な読みやすい書物を通して、古典世界・古典文化に興味をもつのが第一歩であろう。

【さまざまな古典世界を読む】
 次に、もっと個々の作品やジャンルについて理解を深めたい、という人のために有益な書物を紹介したいが、まず何よりも中学や高校の教育現場で使用される『国語便覧』の類を、徹底的におさらいしたいものである。古典文学の流れや古典世界の諸相を知るのに、これほど手頃で行き届いた書物はない。最近は写真や図表などが豊富でビジュアルなうえ、各時代の暮らしや祭り、動・植物、色・文様等々、百科図鑑的な内容まで盛られている。大げさではなく、生涯そばに置くべき一冊であろう。
 さて、きまって日本の古典文学史のはじめに登場するのが、国家神話たる『古事記』。その神話的・歴史的伝承の意味を考えるには、益田勝実『古事記』(岩波同時代ライブラリー、1996年、1068円)などがあるが、こと作品の全体像を把握したいのなら、神野志隆光『古事記の世界観』(吉川弘文館、1986年、2000円)あたりがいい。作品理解のためには、まずその世界観や全体構造をおさえておくことが大切だろう。同じ上代文学の『万葉集』についての研究は、古来、万葉学といわれる独特の学問領域を形成してきたが、佐竹昭広『萬葉集抜書』(岩波現代文庫、2000年、1200円)は戦後のそれを代表する論集(原版は1980年刊)。近年、文庫本となって求めやすくなった。また『万葉集』の入門書としてユニークなのは、中西進(編)『万葉集を学ぶ人のために』(世界思想社、1992年、1893円)。初心者に配慮して全編が座談形式になっている。なお、この世界思想社の「学ぶ人のために」シリーズには、ほかの日本古典関係も数多いので参考にされたい。とくに大槻修・神野藤昭夫(編)『中世王朝物語を学ぶ人のために』(1997年、2600円)のような未開拓分野に関する入門書は、概要理解のため十分な活用が必要であろうし、最近の小峯和明(編)『今昔物語集を学ぶ人のために』(2003年、2500円)のように、有名作品でも最新情報を盛り込んだ手引き書は、できるだけはやく古典学習の場に活かすべきであろう。
 古典文学といえば、やはり平安時代の王朝文学が定番。よその古典では考えられない「中古」文学という領域が独立定着したほどに、この時代の文学は突出している(「ちゅうぶる」ではないぞ!というギャグもいまや古典的)。代表はいわずと知れた『源氏物語』だが、その成立には「物語の出で来はじめのおや」の『竹取物語』の存在が欠かせなかった。小嶋菜温子『かぐや姫幻想』(森話社、1995年、2700円)は、その絶大な影響力を視野に収めた刺激的な『竹取物語』論。世界的にそうだが、〈恋〉と〈王権〉が物語の主要テーマであると再確認できる。それを『源氏物語』にそくして論じたのが高橋亨『色ごのみの文学と王権』(新典社、1990年、980円)で、併せてそこには、業平の一代記を語る『伊勢物語』などの重要性も示唆される。
 日本の「物語」概念は広く、前述した説話も物語にほかならない。最大の説話集『今昔物語集』の書名が示すとおりだが、その説話の原話からの変容や裏表については、池上洵一『今昔物語集の世界』(以文社、1999年、2400円)が具体例を通して丹念に説き示してくれる。説話の読み方の手本にしたい。それでも、こんにちなお『源氏物語』中心の物語史観が支配的だが、これに対抗しうる中世の『平家物語』を中心にした場合、物語観そのものが大きく異なってくる。兵藤裕己の『平家物語』(ちくま新書、1998年、660円)によれば、この〈語り〉のテクストとしての物語は、琵琶法師らによって語られる度ごとに発生し揺り動かされるという。日本にもそのような宗教性・芸能性を抜きには考えられない物語がある。さらに、この著者の「日本」という枠組みを形づくった歴史の物語性に関する書物『太平記〈よみ〉の可能性』(講談社選書メチエ、1995年、1456円)もお薦め。曰わく「歴史とは物語である」と。実際、『太平記』に記された時代の政治史は、『平家物語』に左右されたというから面白い。時に物語は現実を作り出す。そのほか中世の語り物には、のち近世に浄瑠璃として盛行する「説経」がある。その魅力や世界観をうかがうには、岩崎武夫『さんせう太夫考』(平凡社ライブラリー、1994年、1165円)、川村二郎『語り物の宇宙』(講談社文芸文庫、1991年、874円)、鳥居明雄『漂泊の中世』(ぺりかん社、1994年、2485円)などが適当。好き嫌いは別にして、日本的心性の原風景ともいうべき「刈萱」「山椒太夫」「小栗判官」等の名曲を全く知らないというのは、まずい。 
 近世文学に関しては、不案内なのでひかえたいが、松尾芭蕉、井原西鶴、近松門左衛門といった有名どころを押さえるなら、やはり最新の井上敏幸ほか(編)『元禄文学を学ぶ人のために』(世界思想社、2001年、2200円)あたりから学んでほしい。元禄期とは「三」に象徴されるそうな。すなわち三教一致の思想、三都の成立、三文豪の活躍。思想といえば、この時代ではいわゆる「宣長問題」が大きい。子安宣邦の『「宣長問題」とは何か』(ちくま学芸文庫、2000年、1000円)や『本居宣長』(岩波現代文庫、2001年、900円)を読んで、それが日本や日本人について考察するうえで、いかに重要な問題であるかを承知しておこう。「宣長問題」はたえず近代日本のアイデンティティーと密接している。その成立を象徴するのが明治天皇。最近、文庫化された飛鳥井雅道『明治大帝』(講談社学術文庫、2002年、1050円)を通して、その実像がしだいに虚像に転じてゆくプロセスをたどってみよう。きっと近代日本の成立をめぐる歪みが実感されるはずだ。
 和歌関係も少し。『古今和歌集』などの作品別の書物は割愛するが、ひとつだけ松野陽一『セミナー[原典を読む]B千載集』(平凡社、1994年、1942円)を、写本・版本の見方や調べ方などの懇切な説明もあるので紹介しておく。古典和歌といえば「百人一首」。数多いその入門書のうち、近年の古典研究者による成果としては、松村雄二『セミナー[原典を読む]E百人一首』(平凡社、1995年、1942円)と吉海直人『百人一首への招待』(ちくま新書、1998年、660円)がある。成立問題だけでなく、作品としての主題や流布・享受の諸相まで、平易ながら本格的な議論がなされている。なじみがあるぶん、このあたりから藤原定家を中心とする和歌世界に入るのがいいかもしれない。その和歌革新の時代を生きた歌人として、藤原清輔、西行、俊成、後鳥羽院、定家らの〈和歌観〉について詳しく論じるのが、山本一(編)『中世歌人の心』(世界思想社、1992年、2233円)。伝記だけでなく和歌に対する考え方から、歌人像を築く方法のあることを知ってほしい。

【古典文化のひろがりを旅する】
 いうまでもないが、文学だけが古典ではない(そもそも「文学」とは漢詩文だけを指した)。そのほか宗教・思想、信仰・民俗、歴史(書)、記録・日記、芸能・美術、有職故実等々によって織りなされるのが古典文化。ここでは広く日本古典文化論というべき書物の案内を試みてみよう。
 天皇や天皇制について考えることは、なお今日的問題であり続ける。たとえば王権論に包摂されない考察をめざした赤坂憲雄『王と天皇』(ちくま学芸文庫、1993年、777円)は、天皇制のなかに侵しがたい〈自然〉性を見出し、その解析によって固有性としての神話を引きはがそうとしたが、いったいその神話の中心たる皇祖神「アマテラス」とは何だったのか。斎藤英喜『アマテラスの深みへ』(新曜社、1996年、2400円)は、古代神話を読み直すなかで、意外にも天皇さえ脅かすその「祟り神」としての荒々しいパワーをもつ相貌を明らかにする。さらにそれを引き継ぐように、古代から中世にかけて童子、男神、女神とさまざまに変貌するアマテラスを手がかりに、神仏交渉の世界を再考したのが佐藤弘夫『アマテラスの変貌』(法蔵館、2000年、2400円)。古典学習で常識とされる「神仏習合」「本地垂迹」について、あらたな知見が得られることだろう。そうした神話や国家などに関する古代論では、西郷信綱の仕事がすぐれている。ここでは、近年新装版が出た『古代人と夢』(平凡社選書、1999年、2200円)を挙げよう。古代人にとってもうひとつの「現実」であった「夢」、それを手に入れるため人々が努力したのは、なぜか。現代では想像もつかない夢をめぐる文化と精神の歴史を、一度ぐらいひもといて損はない。
 よく平安王朝文学では結婚制度が問題になる。そのため、民俗学や歴史学だけでなく文学の側からも、工藤重矩『平安朝の結婚制度と文学』(風間書房、1994年、1500円)といった本が出ているが、もう少しソフトな読み物としては、藤井貞和『物語の結婚』(ちくま学芸文庫、1995年、854円)がいい。古代の人々が性と結婚をどのように考え、どう表現したか。その問いから見えてくるものの方が、私たちには切実な感じがする。中世の性については、細川涼一『逸脱の日本中世』(ちくま学芸文庫、2000年、1100円)が、芸能や説話を通して同性愛や白拍子の男装、能の女装などを論じて刺激的だが、それらの逸脱や倒錯もまた古典常識にほかならない。さらに性と〈聖なるもの〉。避けようのないそのふたつの関わりを追究したのが、待望久しく出版された阿部泰郎『湯屋の皇后』(名古屋大学出版会、1998年、3800円)。〈聖なるもの〉とは「性の隔たりやなかだちをもっておのずと立ちあらわれる何ものかである」と結ばれるが、まずは著者とともに中世の物語、伝承、芸能などの深々とした森に分け入ってみよう。〈聖なるもの〉とは、何となくうっとりする心地よさの名づけでもあることがわかる。あらためてそこから〈聖なるもの〉をめぐる問題批判に転じてほしい。なお、同じ著者による最近の『聖者の推参』(名古屋大学出版会、2001年、4200円)は、とくに声や笑いの芸能、ヲコ人の系譜について縦横無尽に論じる。併読して阿部中世学を堪能していただきたい。
 中世はまた神話創造の時代でもあった。山本ひろ子『中世神話』(岩波新書、1998年、640円)は、記紀神話に登場しない神=豊受大神と、国生みの呪具=天の瓊矛を中心に、「天地開闢」「国生み」などの物語が中世的変容をとげるさまを、わかりやすく説き明かす。この著者には、中世神仏習合の展開を〈変成〉という変革運動ととらえ、熊野巡礼や龍女成仏などのメカニズムをあざやかに物語る『変成譜』(春秋社、1993年、3000円)といった書物もある。少し難しいが、自分のなかにも、心身と世界の変成願望がひそむことに気づかされるかもしれない。そうした著述では、文字文献だけでなく絵巻物や図像などの資料も重視される(絵巻物に関しては、代表的な32点をとりあげ解説してくれる若杉準治『絵巻を読み解く』〔新潮社、1998年、1800円〕が便利)。それらを駆使した中世文化論で名高いのが、密教法服姿の後醍醐天皇像をはじめ、バサラや童形などの〈異形〉のもつ意味を探った網野善彦『異形の王権』(平凡社ライブラリー、1993年、951円)。1986年発刊された当時の鮮烈な魅力はいまも色あせていない。そこでも引かれた『洛中洛外図屏風』について、景観年代説や作者説などの長い論争史を紹介しつつ、自らもパズルを解くように推理してくれるのが黒田日出男『謎解き洛中洛外図』(岩波新書、1996年、660円)。ごく最近ライブラリーに入った『姿としぐさの中世史』(平凡社ライブラリー、2002年、1500円)でもよく知られるこの著者は、絵画史料研究の先駆者、本当に絵が好きなんだなと感じさせる。いろんな霊場の案内絵図といえる「参詣曼荼羅」も貴重な図像資料である。西山克『聖地の想像力』(法蔵館、2000年、3200円)は、『善光寺参詣曼荼羅』等の分析を通して、特定の霊場を「聖地」と見なす想像力に論及する。他方、鎌田東二『聖なる場所の記憶』(講談社学術文庫、1996年、品切れ)では、人間の想像力というよりも、場所のもつ力が人間に憑依して、そこを特別の聖域にしていくという。ややこしい話だが、こんな「精神地理学」なんてのによる日本文化論もあることぐらいは知っておこう。
 もう一点、必読書を。百川敬仁『日本のエロティシズム』(ちくま新書、2000年、660円)。書名はあやしいが、江戸時代以降の日本文化の核心は〈もののあわれ〉という共同感情の共有にあるとして、その問題を、根源的な人間的現象としてのエロティシズムとの関連でとらえ直す、りっぱな日本社会文化史論。江戸時代に現れる〈もののあわれ〉は、あの源氏物語の「もののあはれ」ではなく、〈ひとは自然や社会からの圧迫のもとで生きていかねばならない弱く悲しい存在である〉という自己憐憫の感情。それを〈皆もおなじように苦しんでいるのだ〉という屈折した論理で連帯の絆とする社会システム。重要なのは、現代の私たちもなおそれを生きているということである。そのことと、死や時間をめぐる観念の問題でもあるエロティシズムとの関連がややたどりにくいが、題材には古代の源氏物語から、中世の軍記物、近世の近松門左衛門、近代の泉鏡花などを経て、現代の三島由紀夫や村上春樹までを扱っているので、文学史の読み物としても楽しめる。「感情が社会的現実を構成する」とされる日本について、この際じっくり考えてみてはどうだろう。

【古典理解のための基礎知識を身につける】
 以上のようなすすんだ書物をきちんと理解するには、きちんとした教養を身につけねばならない。もちろん古典そのものの理解にも、習得すべき基礎知識は少なくないので、それらの参考書物をいくつか紹介しよう。
 あらためて和歌に関していうと、その表現技法を理解することが肝腎だが、その点では、見立てをはじめ、掛詞、縁語、本歌取りなどをわかりやすく解説する尼ヶ崎彬『日本のレトリック』(ちくま学芸文庫、1994年、854円)がいい。言葉のあや=レトリックのもつ可能性をも示唆してくれる。近代短歌を含む〈うた〉全般に関する入門書なら、小林幸夫ほかの『【うた】をよむ』(三省堂、1997年、2000円)。コラムや参考文献、各種索引などの行き届いた配慮がうれしい。「月」「桜」「風」「涙」「こころ」「露」等々の古典詩歌の言葉について、そのイメージがどのように形成されたのかを丁寧に教えてくれるのが、渡辺秀夫『詩歌の森』(大修館書店、1995年、2400円)。和歌鑑賞の手引きとしてはむろん、教材分析等においても、ぜひご利用あれ。
 古典文学の背景にある宗教・思想がわかりにくい、という声をよく耳にする。すでに見たように、仏教思想およびそれと神道との習合思想などの知識を抜きにして、古典を理解することはたしかに難しい。というより、それらを熟知していれば、もっと深く読みこむことが可能になるだろう。まずは、最近、大法輪閣から出た『仏教思想を読む』(大法輪閣、2001年、2000円)などの手頃な書物によって、仏教の基本を知るのが先決。そしてできれば、文庫になった末木文美士『日本仏教史』(新潮文庫、1996年、544円)あたりで、日本独自の仏教思想の特徴や問題点についての見識をひろげるのが望ましい。その書物でもわざわざトピックの項をもうけている「本覚思想」(煩悩や迷いの凡夫さえ肯定する超現実肯定思想)は、日本仏教を最もよく特徴づける考え方で、古典文学や芸能などへの影響もはかりしれない。それがいかに本来の仏教思想と異なっているかは、袴谷憲昭『本覚思想批判』(大蔵出版、1989年、5800円)に詳しいが、それはやや高価だというのなら、批判哲学としての「正しい仏教」のあり方を説く、同じ著者の『批判仏教』(大蔵出版、1990年、2800円)を読んでほしい。ともかく興奮すること請け合い。
 神道の入門書は仏教に比べて少ないが、それでもワードマップシリーズの井上順孝(編)『神道』(新曜社、1998年、2200円)などは出色。30のキーワードにて近現代までの変遷をたどりつつ、その宗教システムを浮き彫りにする。また同書を執筆している伊藤聡ほかの日本史小百科『神道』(東京堂出版、2002年、2500円)も充実している。小松和彦『神になった人びと』(淡交社、2001年、1800円)は、藤原鎌足や菅原道真らをとりあげ、日本人の「神」観念の実態を示してくれる。神道と密接する一大ブームの陰陽道は、関係書物の出版ラッシュも衰えしらずだが、その歴史についてなら、村山修一『日本陰陽道史話』(平凡社ライブラリー、2001年、1300円)がちゃんとした勉強になる。スーパースター安倍晴明に関する書物もたくさんあるが、ここでは最近出たばかりの斎藤英喜ほか『〈安倍晴明〉の文化学』(新紀元社、2002年、3000円)と、最も入手しやすい諏訪春雄『安倍晴明伝説』(ちくま新書、2000年、680円)を挙げておく。本当は、まがまがしい華やかさに目を奪われるのではなく、山下克明や小坂眞二などの本格的な仕事を知ってほしいのだが…。神道のみならず、なぜか仏教にも関わって物語などに出てくるケガレの習俗については、山本幸司『穢と大祓』(平凡社選書、1992年、2500円)が参考になる。いまも残存するケガレ観念を歴史的に学ぶことになろう。ちなみに、丹生谷哲一『検非違使』(平凡社選書、1986年、品切れ)は、そのケガレを管理しキヨメ機能を担った検非違使について詳論し、中世の社会秩序にはたしたその役割の大きさを教えてくれる。現在は品切れのようだが、早晩、ライブラリーなどに入ることであろう。
 歴史的知識が古典学習に不可欠なことはいうまでもない。できれば、時代ごとに読みやすい概説書を揃えたいものである。たとえば平安時代のこみ入った政治史については、、保立道久『平安王朝』(岩波新書、1996年、品切れ)が秀逸。従来のように藤原氏中心の通史ではなく「王の年代記」をもくろむ。では、実際に中世の人々はそれら古代の歴史をどのように見ていたのか。大隅和雄『愚管抄を読む』(講談社学術文庫、1999年、920円)は、摂関家出身で天台座主をつとめた慈円の歴史叙述を通して、中世日本の歴史観を明らかにする。歴史の見方じたいが私たちとずいぶん違うことがわかる。さて、わかっているようで、じつはよくわからないのが〈武士〉の起こり。かつては在地領主の武装化、地方武士の成長発展といった説明が一般的であったが、近頃は〈武芸〉という職能を重視した起源論(中央軍事貴族からの発生)が台頭している。元木泰雄『武士の成立』(吉川弘文館、1994年、2400円)は、そのあたりの問題を整理して両面から解明してくれる。その武士たちが活躍する合戦や武器に関しても、誤解が多いようである。川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』(講談社選書メチエ、1996年、1456円)と近藤好和『弓矢と刀剣』(吉川弘文館、1997年、1700円)は、どちらも源平の合戦を中心に、われわれの勝手な思いこみを正してくれる。『平家物語』などの軍記を読む際に注意したいが、但し、それら物語の描写が実像と異なるのは当たり前で、それを暴くだけで満足してはいけない。ではいったい〈物語〉とは何なのか、と問うきっかけにすべきだろう。そのほか、服藤早苗『平安朝の母と子』(中公新書、1991年、563円)や脇田晴子『中世に生きる女たち』(岩波新書、1995年、602円)など、陽のあたりにくい家族、女性、庶民らの生態に光をあてた書物にも、関心を寄せてほしいと思う。

【生きた古典を観に行こう】
 どれくらい前までだろうか、かつて芝居や映画などを通して、古典はむしろ大衆的な文化であった。いまはかろうじてNHKの大河ドラマなんかで、「忠臣蔵」などが若い世代にも知られるぐらいだろうか(そんな番組、見てないか…)。危機的情況に思えるなか、能、狂言、文楽(人形浄瑠璃)、歌舞伎といった伝統芸能の健闘が救いである。劇場にはオッカケをはじめ若い人たちの姿も少なくないようだ。ぜひもっと多くの人に、生きた古典としてのそれらを鑑賞してもらいたい。劇場に足を運べない人は、テレビやビデオで観劇するやり方もある。
 いずれにしろ、当然それなりの事前学習が求められる。能に関しては松岡心平(編)『能って、何?』(新書館、2000年、1800円)、狂言では油谷光雄(編)『狂言ハンドブック』(三省堂、2000年、1650円)、文楽だと田中マリコ『文楽に連れてって!』(青弓社、2001年、1600円)、歌舞伎なら渡辺保『歌舞伎手帖』(講談社、2001年、1600円)等々の入門ガイドの類を手はじめに、それぞれの見どころや鑑賞法をマスターされたい。能の上演脚本(詞章と曲)としての謡曲や種々の狂言台本は、それじたいれっきとした古典作品であるが、源泉はさらに先行の古典世界にさかのぼる。また、文楽や歌舞伎で時代物と呼ばれる演目などは、原作古典のリニューアルにほかならない。願わくは、観劇を楽しんだあと、それらの原典をじっくり読み味わう道に進んで行かれんことを。
 おまけとして番外篇を。古典文学研究もインターネットの時代である。漢字文献情報処理研究会(編)『電脳国文学』(好文出版、2000年、3200円)には、データベース収集や情報整理についての親切なマニュアルが、すでにいくつか本文データの入ったCD-ROMの付録とともに提供されている。もはや索引書類を繰る時代は終わった、などとはけっして言わないが、非常に便利になったことだけは間違いない。また、国文学研究資料館をはじめとする古典関連サイトを利用したり、各種ホームページをのぞいたりするのも、新しい古典の楽しみ方かもしれない。
 いよいよ最後、十年の歳月を費やしてようやくシリーズ完結した網野善彦ほか(編)『いまは昔 むかしは今』(福音館書店、1989〜99年、計43500円)を紹介して閉じめとしよう。索引篇を加えて全6巻、計4万円を超えるので、気軽に購入を薦めることはできないが、もっぱら子どもの本を扱う出版社らしく、「大人の絵本」として抜群の出来ばえである。『瓜と龍蛇』『天の橋 地の橋』『鳥獣戯語』『春・夏・秋・冬』『人生の階段』という各巻テーマのもと、中世説話を中心として神話、昔話、物語、絵巻物、和歌、歌謡、俳句、能、狂言、歌舞伎等々、また洋の東西を問わずギリシャ神話やインディアン民話などもあり、時に中島みゆきの詩なんてのも織り込まれている。古典学習の面からも、まさしく教材の宝庫。国語教師がこれを利用しない手はない。ともあれ百聞は一見に如かず。実際、図書館などで手にとって、本作りにかける人のワザのすごさに圧倒されていただこう。