「こぶ取り爺さんの素顔」(「トークやしろ」2000.9.3放送)
 
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   こぶ取り爺さんの素顔                 兵庫教育大学 山口眞琴
 
 たとえば「桃太郎」や「鶴の恩返し」といったお話、みなさんよくご存じのことと思いますが、ではそれらはいったいいつ頃から語りはじめられたのか、つまりどれほど昔の話なのか、ということになりますと、そう簡単には答えが出ないもののようです。そもそも昔話や民話とよばれるものは、全体にそうした問題を抱えておりまして、今日とりあげる「こぶ取り」のお話もまた例外ではありません。しかし幸いなことに、この話は鎌倉時代十三世紀前半に編纂された『宇治拾遺物語』という説話集に収められていて、中世以前、少なくとも平安時代には広く伝わっていた話だとわかります。よく知られるとおり、「浦島太郎」や「かぐや姫」の話などは、それよりもっと古い文献に出てきますので、それほど驚くべきことではないかもしれませんが、とにかく「こぶ取り」の昔話も、千年以上の歴史をもっているということになります。
 さて、いま申しました『宇治拾遺物語』にある「こぶ取り」の話、昔話の方と区別してここでは「こぶ取り説話」と呼んでおきます。その「こぶ取り説話」は、現代に伝わる昔話とほぼ同じ内容ではあるのですが、こまかく表現をたどっていきますと、実はいくつか決定的に異なる点を見出すことができます。その最も大きな違いは、山の中で雨宿りをしていた最初のお爺さんが、目の前でおこなわれた鬼たちの宴会に飛び入り参加し、一所懸命におどったすえ、こぶをとってもらうという場面にあります。お爺さんの踊りぶりに喜んだ鬼たちは、「こんな珍しい踊りは見たことがない、これからもこうしたうたげには必ず参加するように」と命じて、お爺さんも仰せに従うと約束しますが、なお疑り深い鬼たちは、「しち」つまり約束の保証として「福の物」であるこぶをとろうとします。お爺さんにしてみれば、福どころか厄介極まりないこぶを取ってもらうことこそ、この上ない幸いであったわけですが、驚くことにこの時お爺さんは鬼たちに対して次のように言うのでした。原文どおり読みますと、「ただ目鼻をば召すとも、このこぶはゆるし給ひ候はむ。年ごろ持ちて候ふ物を、ゆえなく召されむ、ずちなき事に候ひなん」。すなわち「目や鼻ならいざしらず、このこぶだけは勘弁してください。長年大切にしてきたものを、訳もなく取られるのはたえられないことです」と、ひたすらこぶを惜しんで見せたのでした。これが演技であることは明らかですが、そうとは知らず鬼たちは「やっぱりね」と言って福の物であるという確信をもって、こぶを取ってしまいます。これらのやりとりからは、とっさに機転を利かせたお爺さんのなかなかしたたかな一面を窺うことができます。
 こうして昔話にはない最初のお爺さん像を描く「こぶ取り説話」にも、もちろん彼をうらやんで真似をする隣のお爺さんが登場します。しかしその描き方は実にあっさりしたもので、元来は話のヤマ場ともいうべき、踊りが下手なうえ恐怖のあまり顎をガタガタふるわせながら囃子詞を歌いそこねるといった、失敗の具体的な様子はまったく描かれていません。昔話では、隣のお爺さんの失敗をおもしろおかしく語ることで、聞き手の笑いをさそう笑い話の性格をもっていますが、『宇治拾遺物語』の「こぶ取り説話」は、その笑わせどころを、最初のお爺さんと鬼たちとのこぶをめぐる駆け引きの場面に移し換えているように思われます。説話の最後「物うらやみは、すまじき事なりとぞ」、すなわち「だから、物うらやみはしてはならないとさ」と、いかにも昔話風に締めくくってはいますが、そのじつ、物まねをして失敗する隣のお爺さんから、まんまと鬼たちをだます最初のお爺さんの方へと、話の中心をずらすことによって大きく書き換えているのが、「こぶ取り説話」であったというわけです。それが可能であったのは、隣の爺型といわれる同じタイプの、たとえば「花咲爺さん」の話などと違って、「こぶ取り」の昔話は善いお爺さん・悪いお爺さんという勧善懲悪的な要素が希薄であった点が要因のひとつに挙げられます。そもそも、自分もこぶを取ってもらおうと出かけたその行動はむしろ自然なこと、隣のお爺さんを笑い飛ばすには酷な話であったのです。そのことをふまえたうえで、ひるがえって「こぶ取り説話」の方は、最初のお爺さんはどうしてこぶを取ることに成功したのか、というあらたな問題解釈を試みて、その答えをまさに臨機応変な知恵をもった人物像に求めたのでありましょう。既に固まっている話の型、いわゆる話型そのものを解体し再構成するというそのダイナミックな営みが、あくまで書かれた説話において実現しているところに、語りとはまたひと味違った書くという表現行為のもつ魅力を感じずにはおれません。
 そうしてできあがった「こぶ取り説話」を通して、もはや主役というべき最初のお爺さんの意外な素顔が浮かびあがってくるのですが、さらにそこに踏み込んでいけば、昔話では一応隣のお爺さんよりは善良なお爺さんとして語られていたはずの彼の方が、実はしたたかというよりかなりずる賢いお爺さんであった、といった具合に人物像が逆転しているのではないか、と見ることもできなくはありません。実際『宇治拾遺物語』という説話集は、そのような読み方が可能なほどに刺激に満ちたテキストでもありました。けれども、私はこの説話においてはそこまで読まない方がいいだろうと思っています。なぜなら、その一方で最初のお爺さんが鬼たちの前に飛び出していくまでの切実な心の葛藤が描かれているからです。はじめ鬼たちの姿を見て恐怖におののいていたものの、やがてほとんど人間のするそれと同じ宴会の様子の楽しさに引き寄せられ、ついに自分もそこに加わろうとするお爺さん、しかしそれも無謀なことと一度は思いとどまり、でもやっぱり踊りの手拍子の楽しさに魅せられて「ええいままよ」と飛び出してゆくのでした。その場面、原文では「さもあれ、ただ走りいでて、舞ひてん。死なばさてありなん」という決死の覚悟が語られています。命とひきかえても踊りの輪に加わろうとした悲壮な決意と衝動的なふるまい。それは、この説話の冒頭に紹介される、大きなこぶのせいで他の人々と交わることができなかった、たぶんお祭りや盆踊りなどもそっと物陰からうらやましくながめていたのでしょう、そのような淋しい境遇ゆえにわき起こった、まさしく真実の姿にほかなりません。むろん、この時点ではこぶを取ってもらおうなどという計算はなかったはずで、やはりそれは踊り終わって冷静さを取り戻してから、とっさに思いついたものであったというべきでしょう。こぶに象徴される社会的疎外がもたらす深い孤独感、その満たされぬ思い、かなわぬ願いを死を賭してまで遂げようとする衝動、そしてみずからしたたかに障害を克服しようとする知恵。これほどお爺さんの内面をきめ細やかに深く掘り起こした話は、残念ながら昔話のたぐいには見ることはできません。あらためて『宇治拾遺物語』によるすぐれた解釈力、表現力に思いをよせたい気がいたします。
 ただ、それにしても忘れてならないのは、「こぶ取り説話」でも型どおりながら、物まねに失敗したあげく、顔の両側にこぶをつけられてしまう隣のお爺さんのことです。笑うべき対象ではなくなったぶん、その姿は昔話よりもいっそう切ないものがあります。このお爺さんの哀しみはいつになったら癒されるのでしょうか。
 最後までおつきあいくださいまして、ありがとうございました。