第6章:世界の言語と日本語


 兵庫教育大学で学部1年生向けに開講されている一般教養の「言語」という授業は、その名の通り「言葉」を対象にしつつ、広く世界に目を向けて、広い視点から英語や日本語を見つめ直すとともに、沖縄語やアイヌ語のほか日本国内の方言にも理解を深めようという趣旨で講義されている。その全てを紹介することは出来ないけれども、ここでは、その一部を抜粋して紙上で再現し、言語の多様性に関する情報を提供することとしたい。では、「言語」の授業にご案内いたしましょう。


世界の言語─多様性と系統】
 世界に言語は幾つあるか、と唐突に教室で問いかけたら白けるだろうか。それでも、せめて桁数くらいは正答して欲しい。結論的には、一般に3,500から4,500という数字が受け入れられており、多い場合は8,000という数字があげられることもある。これだけ数字の幅が広いのには2つの問題があると言われる。
 1つは数え方の問題である。例えば、一口に「英語」といっても、少なくとも、アメリカ英語、イギリス英語、オーストラリア英語、カナダ英語、ニュージーランド英語などのバリエーションがあり、文法・音韻・語彙において差異は小さくない。これらを「1」と数えてよいのか「5」と数えるべきかにより、すでに「4」の差がでる。このような事情が重なると、言語の総数に大きな差が生じることになる。
 もう1つは言語の消滅という問題である。例えば、ネイティブアメリカンの言語は1600年頃に500以上が確認されていたのに、1980年には200以下に減少した。また、英国最東部のコーンウォール語は1977年に死滅し、オーストラリア東北部のワルング語も1981年に死滅した。さらに、オーストラリア北西部のヤウル語は1990年現在30名しかいないという。このような変化が正確に反映されないことも、言語の数が不安定になっている理由の1つでもある。
 ともあれ、言語の数が3,000であれ、8,000であれ、国家の数字より言語の数の方がはるかに多い。ということは、1つの国で複数の言語が用いられているケースが珍しくないことを表している。上述のように、アメリカ合衆国内にはネイティブアメリカンの言語が150は現存しており、インドでは、ヒンディー語、ベンガル語、タミル語、英語など14の公用語に地方の言語も含めると、1,000以上の言語が話されている。日本でも、国内で話されている言語は「1」ではない。日本語のほか、琉球語とアイヌ語があることを決して忘れてはならない。
 ところで、と或る英語の文法書に、例文として“The language which is spoken in USA is English.”とあるのを見たことがある。たしか、関係代名詞か受動態の用例として例示されたものだったように覚えているが、PC(political correctness)の観点から言うと、非常にマズイ文である。主節主語のlanguageが単数で、定冠詞が付いているから、これでは「合衆国の中で話されている言語は1つしかなく、それが英語だ」と言っていることになるからである。
 次に、世界の言語を話し手から比べてみよう。母語としての話し手がどれくらいいるかという点でランキングを作ると、およそ次のようになっている。

  1.中国語(北京官話)……10億       6.ベンガル語………1億5千万
  2.英語……………………3億5千万    7.ロシア語…………1億5千万
  3.スペイン語……………2億5千万    8.ポルトガル語……1億4千万
  4.ヒンディー語…………2億       9.日本語……………1億2千万
  5.アラビア語……………1億5千万    10.ドイツ語…………1億

この中で、4位のヒンディー語はインドの公用語の1つで、第6位にランクインしているベンガル語はバングラデシュで話されている言語である。これら4位の言語も6位の言語も、国連公用語にはなっていない。逆に、フランス語は11位で、ランク圏外であるのに国連公用語になっているということは、国連公用語が政治力で決められたことを如実に物語っている(ちなみに、国連公用語は、現在、英語・フランス語・中国語・ロシア語・スペイン語・アラビア語の6つである)。なお、このデータの出典は『言語学百科事典』(大修館書店、1992)で、10年以上前のものではあるが、相対的な順序は変わっていない。強いて変化があったとすれば、中国語の母語話者が、この数字より現在は大きく増えていることであろう。
 もう1種類、公用語として用いている人口の数によって作ったランキングが次の表である。

 1.英語………………………14億       6.フランス語…………2億7千万
 2.中国語……………………10億       7.アラビア語…………1億7千万
 3.ヒンディー語……………7億       8.ポルトガル語………1億6千万
 4.スペイン語………………2億8千万    9.マレー語……………1億6千万
 5.ロシア語…………………2億7千万    10.ベンガル語…………1億5千万

母語としての話し手を数えたときには、1位=中国語、2位=英語、の順であったのが、公用語としての話し手を数えると、そのランキングが逆転している。公用語として英語を使っているのは、アメリカ、イギリス、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドのほか、インド、シンガポール共和国、マレーシア、キプロス共和国、スリランカ民主社会主義共和国など計61カ国にのぼる。
 では、世界の諸言語は、どのように関連付けられているだろうか。ある種の言語は元来1つの言語だったものが歴史の中で分化して複数の言語になった。もちろん、全ての言語が1つの言語から派生したわけではなく、初めに10から20くらいの言語が発生し、そこから分化していって数千もの数になったと考えられており、同じ言語から分化した言語は「語族(language family)」や「語派(language branch)」という単位で分類されている。語族というのは、世界の言語を大きく分類した単位で、およそ15の語族が設定されている。語派とは、語族の中で分類したときの単位で、語派の数は語族によってさまざまだ。主な語族の名前を挙げれば、インド・ヨーロッパ語族(インドから欧州に至る広い地域に分布)、シナ・チベット語族(中国の中南部からインドシナに分布)、マライ・ポリネシア語族(東インド諸島から南太平洋の島々に分布)、ニジェール・コンゴー語族(アフリカ最大の語族)、セム語族、ハム語族、ウラル語族、アルタイ語族、オーストロ・アジア語族などがある。このうち、最も大きな語族がインド・ヨーロッパ語族(印欧語族)で、その系統関係は次のように図示できる。

インド・ヨーロッパ語族

├ ロマンス語派──────────┬─ラテン語(死語)、ギリシャ語
│ (=イタリック語派)        └─フランス語、イタリア語、スペイン語
├ ゲルマン語派─┬─西ゲルマン諸語──英語、オランダ語、ドイツ語
│         └─北ゲルマン諸語──スエーデン語、デンマーク語、ノルウェイ語
├ ケルト語派─────────────アイルランド語、スコットランド語
├ スラヴ語派──┬─東スラヴ諸語───ロシア語、白ロシア語
│        ├─西スラヴ諸語───チェコ語、ポーランド語
│         └─南スラヴ諸語───ブルガリア語
├ バルト語派─────────────リトアニア語、エストニア語
├ インド語派─────────────梵語(死語)、ヒンディ語、ネパール語
├ イラン語派─────────────ペルシャ語
├ アルメニア語派
├ アルバニア語派
├ トカラ語派
└ ヒッタイト語派

ここから伺えるように、語族は、人間の一族のように、曽祖父から祖父・父・子・孫へと分化したものと考えてよい。そうすると、英語とドイツ語は、いわば兄弟の関係にあり、同様に、フランス語とイタリア語とスペイン語も、兄弟の関係にあると考えてよい。さらに言うと、英語やドイツ語は、フランス語やイタリア語といとこの関係にあることになる。
 系統関係の「近さ」ということを考えてみよう。一般に、系統の近いものほど語彙や文法も似ているというのが比較言語学の基本原理であり、具体的には、次のように例示できる。

ラテン語

フランス語

イタリア語

スペイン語

英語

オランダ語

独語










10

unus
duo
tres
quattuor
quinque
sex
septem
octo
nevem
decem

un
deux
trois
quatre
cinq
six
sept
huit
neuf
dix

uno
due
tre
quattro
cinque
sei
sette
otto
nove
dieci

uno
dos

tres
cuatro
cinco
seis
siete
ocho
nueve
diez

one
two
three
four
five

six
seven
eight
nine
ten

een
twee
drie
vier
vijf
zes
zeven
acht
negen
tien

ein
zwei
drei
vier
funf
sechs
sieben
acht
neun
zehn



この表は、基数詞を比較したものである。英文法の授業でも教えられているように、数詞には基数詞と序数詞があり、序数詞は「〜番目」を表す概念で、この表に挙げた基数詞は普通の数のことと思っていい。この表に挙げた7つの言語はインド・ヨーロッパ語族という同じ語族に属しながら、語派が異なっており、左側の4言語がロマンス語派に属すのに対し、右の3つはゲルマン語派に属す言語である。具体的に、「1」を表す語を見比べると、左側のロマンス語の方では、イタリア語とスペイン語でunoという同じ語形(音形)が用いられ、フランス語のunも非常に似ていることが分かるだろう。右側のゲルマン語の方では、英語のoneとドイツ語のeinはよく似ているし、オランダ語のeenも似た音形をもつ。このように、同じ語派に属す言語同士は良く似ているが。語派が違うと似ている度合いも弱くなる。実際、英語のoneとフランス語のunは似ていないとは言わないものの、同じ語派に属する言語との「近さ」と比べれば、やや「遠い」感じは否めない。つまり、言語の系統関係が近ければ近いほど音形の類似性も高く、系統関係が遠くなるほど音形の類似性も低くなる、というのが比較言語学の基本原理である。
 ところで、もともと同じ語族に属する言語同士は1つの言語から分化したものであるから、その差異は程度問題に帰着される。逆に言うと、結局、英語とドイツ語が別の言語なのか同じ言語の方言なのかという問題は、程度の差でしかない。したがって、視野を最大限に広げれば、例えば、英語とドイツ語を広い意味で方言と見る考え方も間違いにはならない。文字の表記や文法に違うところは大きいものの、そうした現象は同じ言語内でも起こりうるからである。国境や国家という単位も一応の目安にはなるだろうが、例えば、韓国(大韓民国)と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)では、母音の数が少し違うものの、本質的には同じ言語であり、別の言語と数えることはしておらず、国家の差異は言語の区別に直結しない。結局、<別の言語>なのか<同じ言語の方言>なのかという問題は、事実上、恣意的な判断にならざるを得ないというのが現状である。
 もう1つ加えておきたいのは、どの語族にも属さない「系統不明の言語」という範疇があることで、実は日本語も「系統不明の言語」の1つである。
 これらが世界の言語に関する基礎知識であるが、高校生でも読めるレベルの一般書に次のようなものがある。

 藤田 実・平田達治(編) 1985『ことばの世界』大修館書店.1,600円.
 朝日ジャ−ナル編集部  1991『世界のことば―朝日選書―』朝日新聞社. 1,100円.
 柴田 武(編)      1993『世界のことば小事典』大修館書店.5,500円.
 下宮忠雄        2000『世界の言語と国のハンドブック』大学書林.3,000円.
 千野栄一・石井米雄(編) 1999『世界のことば100語辞典[ヨーロッパ編]』三省堂.1,600円.
 千野栄一・石井米雄(編) 1999『世界のことば100語辞典[アジア編]』  三省堂.1,600円.
 ベルリッツ/中村保男(訳) 2002『ベルリッツの世界言葉案内』新潮選書. 1,500円.
 亜細亜大学慣用句比較研究プロジェクト
             2001『世界の言葉散策目は口ほどにものを言うか?』三修社.2,000円.

これらは全て言語学者が書いたものであって、ややもすると難しい記述になりがちであるが、小学生にも分かるように振り仮名つきで書かれた本もある。

  吉田智行 1997『日本語は世界一むずかしいことば?:日本語と世界の言語―ことばの探検―』アリス館. 1,800円.

この本には、「数え方の問題」のほか、言語の死滅についても触れられている。


【日本語は特異な言語か】
 さて、その中で日本語の位置づけはどうなのだろうか。系統という観点から言うと、たしかに、日本語は「系統不明の言語」であるから、その意味で“根無し草”ではあるけれども、それだけで、特殊なものと考えるのは偏見であろう。客観的な基準で測定する必要がある。ここでは、基本語順と分布の面から相対化させてみたい。
 まず、基本語順はどうか。高校生は、英文法で、SVOなどという言い方を聞かされることであろうが、主語(S)、動詞(V)、目的語(O)が、基本的にどの順番で配列されるかという観点から言えば、言うまでもなく、英語はSVO型であり、日本語は、動詞(述語)が文の最後に来るのでSOVということになる。もちろん、SVO型の言語は、英語だけでなく、ドイツ語や中国語もそうで、次のように配列される。

  [独語]
Ich liebe Sie.   [中国語] 我 愛   ?
      私 愛する あなた        私 愛する あなた

どちらも、英語と同じSVO型の言語であり、主語→動詞→目的語の順に配列されている。
 ただ、SとVとOの相対的な配列順序は、SVOとSOVだけではない。理論的には6通りの語順が可能であり、実際、6通りの基本語順が知られている。具体的な言語の名前を入れてみると、次のようになる。

  SOV型=朝鮮語、トルコ語、アムハラ語など
  SVO型=英語、ロマンス諸語、中国語、バンツー諸語など
  VSO型=ヘブライ語、アラビア語、タヒチ語、イースター島語など
  VOS型=マラガシ語、トンガ語、タガログ語など
  OVS型=ヒシカリャナ語(ブラジル)ほか
  OSV型=カバルド語(北コーカサス地方)

このうち、最後の2つ(OVS型とOSV型)は、非常に数が少ない。OVS型の言語として知られているのは、北部ブラジルで話されているヒシカリャナ語で、言語人口も350人程度しかいないらしい。OVS型の言語は他に数例しかない。さらに少ないのが、基本語順がOSV型の言語で、北コーカサス地方のカバルド語という言語1つのみといわれている。
 では、基本語順として、英語のようなSVO型の言語と、日本語のようなSOV型の言語は、どちらが多いだろうか? もちろん、問題にしているのは言語そのものの数であって、人口で考えてはいけない。人口で数えれば、中国語だけで13億もいるのだから、SVO型がいちばん多いに決まっているからだ。結論を言えば、日本語のようなSOV型の言語の方が、英語のようなSVO型より多い。ちなみに、全6種の基本語順を言語の数でランキングすると、次のようになる。

  SOV型………約45%
  SVO型………約35%
  VSO型………約18%
  VOS型………約2%
  OVS型………僅少
  OSV型………1言語のみ

SOV型は半数に近づこうとするほどであるのに対し、SVO型は3分の1強にとどまる。ここで留意して欲しいのは、言語人口で見るとき、日本語が基本語順において最多数派に属すという事実である。
 もう1つ、文法的な側面から、疑問文の作り方をみてみよう。平叙文を基本に疑問文を作るとき、日本語は文末に疑問の標識「か」を付けることは言うまでもない。

    ここは講義室です  →  ここは講義室ですか

これに対し、英語は、主語と述語を入れ替える。

    This is a lecture room.→ Is this a lecture room?

では、この2つのタイプについて、再び言語の数を比べてみよう。日本語のように文末に疑問の標識付けて疑問文を作る言語と、英語のように主語と述語を入れ替えけて疑問文を作る言語とで、どちらが多いだろうか。答えは、ご想像の通り、前者の方が多い。具体的な数字を挙げるだけのデータはないが、文末に疑問の標識付けて疑問文を作る言語は世界の至るところに遍在しているのに対し、主語と述語を入れ替えて疑問文を作る言語はヨーロッパの一部に限られており、圧倒的に前者の方が多いことは間違いない。ここでも、日本語が最多数派に属することを確認しておきたい。
 こうした事実から、あらためて「日本語は特異な言語か」という問いを立てると、客観的に見て、日本語は決して特異な言語ではなく、基本語順や文法的な特性から見る限り、多数派に属す言語であって、標準的な言語であるといってよい。
 ところで、さきほど、系統の近いものほど語彙や文法も似ているというのが比較言語学の基本原理と述べたが、日本語と近隣の言語の関係はどうだろう。次の表は、日本語(東京方言)と現代韓国語で、身体部位に関する語を比べたものである。


 

 

  鼻

 

 

 

 

  頭

 

日本語(東京方言)

  te

 ashi

  hana

 me

 kutsi

 ha

 mimi

  atama

 hara

 現代韓国語

 son

 par

 k'o

 nun

 'ip

 'i

 kwi

 m?ri

 pεe



どうだろうか、子音や母音に共通するところが殆どないことに気がつくだろう。実際、日本語と韓国語は系統関係にはないというのが言語学的な帰結である。
 では、今度は、日本語と琉球語はどうだろうか。次の表は、日本語と琉球語で、基本的な語彙を選んで比べたものである。


  所

 

 

 

 

 

  心

 

 日本語(東京方言)

 tokoro

 mono

 kono

 kado

 ko?i

 ?iro

 kokoro

 mame

 琉球語(首里方言)

 tukuru

 munu

 kunu

 kadu

 ku?i

 ?iru

 kukuru

 mami



今度は、非常に似ているという実感を持つことだろう。実は、日本語と琉球語は、同じ系統の言語であって、約1700年前に分裂したことが知られている。しかも、注意力の良い人は、日本語と琉球語に一定の規則性があることに気がつくことだろう。
ここから導かれる結論は、「日本語を中心に考えると、韓国語(朝鮮語)とはそれほど似ていないのに対し、琉球語とは規則的に対応する」という事実であり、言語学的には「日本語と韓国語(朝鮮語)は起源の異なる言語であるのに対し、日本語と琉球語は非常に近い系統関係にある」というものである。では、次に琉球語とアイヌ語について見ていこう。


【琉球語】
 琉球では、琉球語のことを「ウチナーグチ」と呼び、本土の日本語「ヤマトグチ」という。琉球語について最も入手しやすい単行本といえば、外間守善『沖縄の歴史と文化』(中公新書、1986)で、良質の概説書といってよい。このなかの、次の一節を引用したい。


 「坂」のことを沖縄語では「ヒラ」という。日本古語では「黄泉比良坂」のように「ヒラサカ」と言っていた。沖縄語に「ヒラ」が残り、日本語に「サカ」が残って、半分ずつお互いが分け持ったことになる。また、沖縄で「障子」のことを「アカリ」といい、本土では「ショージ(障子)」という。ところが、平安時代には「アカリソウジ(明かり障子)」であり、これも半分ずつお互いが持ちあっている。つまり、持ちあっている二つの語を合わせると日本の語の古い姿を再構できるわけである。


この記述は、日本語と琉球語が同じ言語(古代日本語)から分化した兄弟の関係にあることを述べたものである。
 ところで、琉球語と日本語の最も大きな音韻の違いは、日本語が「a・i・u・e・o」という五つの母音をもつのに対し、琉球語は「a・i・u」の三母音である。その変化の過程について外間守善は次のように説明している。

沖縄語のもっとも特徴的な音韻変化は、五母音から三母音への変化である。現代の沖縄語では、a・i・u・e・o五母音のうち、eはiに、oはuに移行しているので、五十音図中のエ列はイ列に、オ列はウ列に重なることになる。例えば、コメ(米)はクミ、ココロ(心)はククルという。このような変化がいつ頃起こったかということが問題になるが、私は、文献時代に入る直前(15世紀末頃)には、かなり程度まで三母音化現象が進んでいたに違いないと考えている。

これに従えば、例えば「いちばん星」は「いちばんぶし」になるし、「願う」は「にがう」になる。また、「想い」は「うむい」になり、「場所」は「ばす」になる。ただ、母音を変えれば琉球語になるというものではなく、語彙的に大きく異なるものもあり、日本語の「あなた」は琉球語で「うんじゅ」というし、「美しい」は「ちゅら」といい、「こんにちは」を「はいさい」というのは良く知られている。同様に、「いらっしゃい」を意味する「めんそーれ」は、最も有名な琉球語と言ってよいかもしれない。さらに、文法的にも微妙に異なり、「見上げれば」という条件表現は「見らりりば」という形になる。
 こうした琉球語に関する参考文献としては、先述の『沖縄の歴史と文化』が一般書としてお勧めできる良書であるが、このほか、専門書以外では次のようなものが適当であろう。

 西岡 敏・仲原 穣   2000『沖縄語の入門―たのしいウチナーグチ』白水社.1,800円.
 平山輝男・野原三義(編) 1997『沖縄県のことば―北琉球』明治書院.2,800円.
 永田高志        1996『琉球で生まれた共通語 琉球篇』おうふう.2,136円.
 戸井昌造        2000『沖縄絵本』平凡社.1,600円.

最後の戸井昌造氏は画家であって、研究者ではないが、自分の足で見聞きした沖縄の歴史、風土、思想をエッセイとイラストで綴った沖縄案内だ。代表的な島歌を収録したCDが付いている。


【アイヌ語】
 日本国内には、日本語のほか、琉球語とアイヌ語が存在すると上述したが、琉球語が日本語と同じ系統の言語であるのと異なり、アイヌ語は系統的に日本語とは別の言語である。アイヌについては、歴史や政策の問題だけでも大きな課題であるが、ここでは、いわゆる「旧土人法」が1997年7月の「アイヌ民族に関する法律(アイヌ新法)」と「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律(アイヌ文化法)」施行まで存続していたことを指摘するに留めておきたい。
 さて、アイヌ語について、まず明確にしておきたいのは、日本国内で使われている言語でありながら、アイヌ語は日本語の方言ではないという点である。日本語とアイヌ語の系統関係については、「現在のところ分からない(不明)」というのが最も正しい答えで、むしろ、系統関係はないだろうというのが大勢である。というのも、基本語順(SOV)が日本語と同じという共通点は大きいものの、アイヌ語の動詞には単数形と複数形があるほか、逆に、動詞に時制(現在と過去形の区別)がないなどの点で、日本語と大きく異なるからである。音声面でも、日本語と同じように「アイウエオ」の5つをもつが、子音の数は日本語より少なく、パとバ、タとダ、カとガのような無声音と有声音の区別がない。「お母さん」のことを「ハポ」といっても「ハボ」といっても意味の差はなく、この点では、むしろ中国語と同じだ。
 では、日本語とアイヌ語の系統関係については「不明」ということとし、アイヌ語から日本語に借入された語を挙げておこう。例えば、「ラッコ」「トナカイ」はアイヌ語からの借入語だ。「トナカイ」は北欧の語ではない。また、「シシャモ」も、「スサム」というアイヌ語から来ている。
 アイヌ語について、概要と諸表現を知りたいと思えば、様々な人が様々な立場で入門書を出している中で、中川裕氏による次の一般書を勧めたい。

 中川裕・中本ムツ子 1997『エクスプレス アイヌ語』白水社.2,400円.

中川氏は千葉大学に勤める言語学者で、私の知る限り、この人の著者なら信用して読んでよいと思う。実際、解説も非常に分かりやすい。
 また、アイヌ語を含むアイヌ民族に広く関わるものとしては、次のような一般書がいいだろう

 中川 裕 1997『アイヌの物語世界』平凡社ライブラリー. 932円.
 中川 裕 1995『アイヌ語をフィールドワークする―ことばを訪ねて』大修館書店.1,700円.
 本多勝一 1993『先住民族アイヌの現在』朝日文庫.520円.

このうち、『アイヌの物語世界』は、アイヌの伝承物語を知るには格好の入門書であるが、第4章は、やや難しく感じられるかもしれない。このほか、ネット上の情報源として北海道のアイヌ語地名も情報量が多く有益だ。


【日本の方言】
 では、日本語そのものの多様性に目を向けよう。いわゆる方言論である。語感的に「方言」と言うと“田舎のことば”と連想されるかもしれないが、方言の「方」は「地方」というより「地域」というニュアンスであるから、都市化の度合いとは全く無関係であり、どんなに都市化されたところで、1つの「地域」である以上、その地域の言葉は、その地域「方言」にほかならない。当然のことながら、東京で話されているものも「東京方言」と呼ばれる方言の一つの過ぎない。
 さて、方言を考えるとき、伝統的に2つのアプローチが知られている。「方言区画論」と「方言圏」である。方言区画論は、「境界線」をひきながら全国を大から小へ分けて行く方法で、東条操の『日本方言学』(1953年)によって提示された次のような区画論が有名だ。

  東部方言
   北海道方言
   東北方言(新潟県北部を含む)
   関東方言
   東海東山方言(新潟県・長野・岐阜・山梨・静岡・愛知)
   北陸方言(富山・石川・福井県北部)
   八丈島方言
  西部方言
   近畿方言(福井県南部を含む)
   中国方言(出雲・伯耆以外の中国5県および、兵庫・京都の日本海沿岸)
   雲伯方言
   四国方言
  九州方言
   肥筑方言(長崎・佐賀・福岡・熊本)
   豊日方言(大分、宮崎、福岡県行橋以南)
   薩隅方言(鹿児島および宮崎県都城周辺)
  琉球方言
   奄美方言
   沖縄方言
   先島方言

これによれば、兵庫県の方言は、大部分が近畿方言に属す一方、日本海側は中国方言に属すことになる。
 もう1つのアプローチは「方言圏」と呼ばれるもので、使用の分布を地図に書き込み「等語線」をもとに方言圏を囲んで行く方法をいう。方言地図は、方言事象に記号を付して日本地図の上に書き込んでいったもの。
 こうした方言論に関する基本図書に次のようなものがある。

◎徳川宗賢・真田信治(編)
          1991『新・方言学を学ぶ人のために』世界思想社.
◎徳川宗賢     1979『日本の方言地図』中公新書.
◎鈴木一彦・林巨樹(監修)
          1995『概説日本語学』明治書院.
○柴田 武     1995『日本語はおもしろい』岩波新書.602円.
○柴田 武     1988『生きている日本語』講談社学術文庫.780円.
○佐藤亮一     1990『方言をしらべよう : 郷土の研究』福武書店.
○平山輝男     1988『日本の方言』講談社現代新書.
 平山輝男(ほか編) 1994『現代日本語方言大辞典』明治書院.
 中谷保二     1952『兵庫方言集』洛北書房.
 井上史雄     1985『新しい日本語〈新方言〉の分布と変化』明治書院.
 川崎 洋     1998『方言自慢』小学館文庫.
 彭  飛     1999『大阪ことばと外国人』中公文庫.
○松本 修     1996『全国アホ・バカ分布考』新潮文庫.
 三浦 竜     1997『「方言」なるほど雑学』三笠文庫.
 柴田 武     1958『日本の方言』岩波新書.700円.
 真田信治     2002『方言の日本地図―ことばの旅』講談社プラスアルファ新書.780円.
 真田信治     2001『方言は絶滅するのか―自分のことばを失った日本人』PHP新書.660円.

このうち、◎印をつけたのは方言論を学ぶ基本図書としてお勧めできるもので、○印は、一般向けに書かれた概説書として推薦できるものである。
 方言は、必ずしも若い世代に興味深いものではないかもしれないが、しばしば、我々の社会生活に方言論が顔を出すことがある。松本清張の小説に『砂の器』という作品があり、その中で、事件の重要な鍵を握る人物が「ズーズー弁」を使っていたというので、東北出身者だと思われるが、実は島根県の出雲の出身だったという有名なトリックがある。また、実際の誘拐事件で、犯人からの身代金要求電話を分析すると、どの地方に何年くらい(何歳のころまで)住んでいたかまで分かることがある。


【新方言】
 もし方言という現象に関連して興味深いものがあるとすれば、新方言と呼ばれる現象を挙げてよいかもしれない。伝統的な意味での方言が、徐々に失われて来ているのに対し、新しい世代に向けて使用者が増加している方言である。具体的な例を挙げれば、東日本で「パーマをかける」というのを、西日本では「パーマをあてる」という。また、東日本で「マクドナルド」を短縮して「マック」というのに対し、西日本では「マクド」という例が新方言にあたる。
 こうした新方言について、一般向けに解説した新書に井上史雄『日本語ウォッチング』(岩波書店、660円)があり、専門書としては、井上史雄『新しい日本語〈新方言〉の分布と変化』(明治書院、1985年)がある。が、何といっても、『日本語ウォッチング』が安価で、しかも読みやすい。『日本語ウォッチング』によれば、新方言は、次のような特徴を持つという。

  [@]新しい世代に向けて使用者が増加しつつあること
  [A]地元でも「方言」扱いされていること(改まった席では使われない)
  [B]語形が全国共通語形と一致しないこと

とりわけ、[@]に挙げた「新しい世代に向けて使用者が増加しつつある」ことが伝統的な方言と決定的に異なる点である。
 具体的な例を更に挙げてみよう。一般に、動詞の「違う」に否定の「ない」をつけて「た」形にするとき、全国共通語では「違わなかった」となる。これを東京地方では「チガウカッタ」ということがあり、関西地方では「チガカッタ」の形になる。また、「〜してしまった」も、東京地方で「〜チッタ」となるのに対し、関西地方で「〜テモウタ」になるという。
 「東日本」対「西日本」といった2分法では余りにも大雑把なので、もう少し細かく地域をみてみよう。全国的に「模造紙」と呼ばれる紙も地域差があり、東海地方では「B紙」といい、おそらく東海地方の人は「B紙」という言い方以外の名前を全く知らないのではないかと思われる。また、同僚に聞いたところでは、山口では「大判用紙」といい、香川では「トリノコヨーシ」というらしい。
 新方言の中には、東京近隣で発生し、後に全国に広がったものもある。例えば、「〜チッタ」「〜ミタク」「〜ッポイ」「ズルコミ」「ナニゲニ」「イクナイ」「ヤッパ」などである。
 なお、新方言については、放送大学の教材で、『「新方言」の分布と変化』 というビデオが製作されている。45分の長さ1巻もので、本体価格が19,048円と値段は高いが、今でも大手の書店から入手できるはずであり、何らかのルートで借りることが出来れば利用されることを勧めたい。もちろん、兵庫教育大学の図書館にも所蔵されている。


【言語と文化】
 
今度は、言語と文化の関係に目を向けてみたい。文化は、生活習慣や芸能のほか、言語にも反映されると言われ、言語は文化の反映と言われることもある。実際、世界の言語を見ると、その国や民族の文化を反映したと思われる特徴が観察される。
 例えば、ヒンディー語における「日にち」表現を見てみよう。

  明後日

  明日

  今日

  昨日

  一昨日

  parso

  kal

  jal

  kal

  parso


一見して分かるように、「昨日」と「明日」が同じで、「一昨日」と「明後日」が同じになっている。つまり、「今日」を中心に、同じ距離にあるものが同じ語形で表されていることがわかる
だろう。このことは、ヒンズー教の「輪廻転生」思想の反映といわれる現象である。なお、宗教の名前としては「ヒンズー」というが、言語の名称は「ヒンディー」というのが正しい。
 また、日本語の動詞「泣く・鳴く・啼く」に対応する英語の動詞を挙げたのが次の表である。

 

 bark(ワンワン)、yelp(キャンキャン)、whine(クンクン)

 

 mew

 

 moo[mu:]

 

 neigh

 

 bleat

 

 grunt

 山羊

 bleat

 

 chatter

 ロバ

 bray

 ネズミ

 squeak

 カエル

 croak

 アヒル

 quack

 ふくろう

 hoot

 

 coo

 カラス

 caw[k?:]

 おんどり

 crow

 めんどり

 cackle

 ひよこ

 peep


日本語では、動詞「ナク」という1つの音形が漢字表記によって「泣く・鳴く・啼く」の3つに下位区分されているに過ぎないが、英語の語彙ははるかに豊富で、その語彙は少なくとも20に達する。このように「(動物が)泣く」に対し英語で多くの語が対応するのは狩猟民族の名残と言われる。
 一方、日本語の方が多くの下位区分を持つケースに次のようなものがある。

  日本語

 

 

 

 ご飯

 ライス

 

  英語

      rice


日本語が「米」に関する下位区分が豊富にあるという事実は、日本民族が農耕民族だったことを反映していると解釈されている。
 さらに興味深いのは、色彩語(color terminology)に見る言語的差異であり、虹の色に関する多様性が有名だ。

 現代日本語(7色)

  紫

  藍

  青

  緑

  黄

  橙

  赤

 古代日本語(3色)

 アカ

     アオ

     アカ

 現代英語(6色)

   violet

 blue

 gree

 yellow

 orange

 red

 ショナ(shona)語

  cipswuka

  citema

 cicena

  cipswuka

 バサ(Bassa)語

       hui

     ziza


この表から分かることは、言語によって虹の色が異なるという事実である。もちろん、虹というものは、世界中どこでも同じ気象学的現象であって、色彩的にも国や地域によって変わることはない。それにもかかわらず、日本語では虹の色を7色といい、英語では6色と感じるのは、何故だろうか。これは、人間が、言語を通して現実世界を見ているためであって、日本語や英語で虹の色を表す語彙が異なれば、現実世界の虹も異なって見えると説明されている。この考え方は言語相対説(サピア=ウオーフの仮説)といい、より一般化して言えば「言語の語彙体系や構造が(ある程度まで)人間のものの見方を規定する」という仮説で、母語とする言語が異なれば、ものの見方も異なるという帰結を導くものである。ちなみに、サピアとウオーフは、言語相対説を本格的に提唱した人物である。この仮説に従えば、日本語を母語とする人が虹の色を7色と感じるのは、日本語に7つの色彩語彙が用意されているからであって、英語を母語とする人が虹の色を6色と感じるのは、英語に6つの色彩語彙しか用意されていないためと言われる。上の表にあるショナ語は南アフリカの言語であるが、この言語で3色の色しか挙がっていないのは、ショナ語には対応する色が3つしか用意されていないからであり、同じく南アフリカのバサ語で虹の色を2色と答えるのもバサ語に2色しか用意されていないためと説明される。
 また、上の表にない言語を加えると、ロシア語では、虹の色は普通5色と思われているし、スペイン語では4色と理解されているが、いずれも、ロシア語やスペイン語に5色あるいは4色の色彩語彙しか用意されていないからというのが言語相対説の考え方である。

 なお、上の表に関して、もう1つ注目していただきたいことがある。それは、現代日本語で「緑」に相当する色を古代日本語では「アオ」と言っていたことである。このことは、古代日本語では「緑」という語が色彩語として用いられておらず、「アオ」という語が、実際の緑色をカバーしていたことを表している。実際、「青葉」や「青竹」は、明らかに緑(green)であって、青(blue)ではない。これを「アオ」というのは、古代日本語において「アオ」が広く青と緑をカバーしていたことの名残として説明されている。
 さらに、言語相対説を支持する類例として知られているのが、エスキモー語には雪に関して豊富な語彙があり、同時に「雪」一般を表す語がないという例である。このことは、エスキモーの人たちが、雪というものを(例えば「湿った雪」「乾いた雪」「積もった雪」などのように)細かく区別して見ているということを示しており、この点で、日本人が雪を見るときと見方が違うということになる。同様に、モンゴル語は馬を年齢と性によって細かく分類し、去勢馬・種馬にも固有の語彙をもつのも、モンゴル民族が、馬と切っても切れない生活を送っていることの反映と考えていい。
 こうした言語相対説の延長線上に位置づけられる話として、欧米には「肩こり」にあたる言葉がなく、実際、欧米人は肩が凝ることはないが、日本に長期滞在し日本語に習熟すると欧米人でも「肩がこる」と感じるようになるという話に興味がおありなら、金山宣夫『比較生活文化事典』(大修館書店)も参考になるだろう。
 最後に、世界の言語や方言を考える意義に触れておきたい。このことについて、鈴木孝夫氏が『閉ざされた言語・日本語の世界』(新潮選書)の229頁で述べている一節を引用させていただこう。

─外国語を学ぶということの目的には、自国語では得られない新知識を得るということおよび、国際的な場面で外国の人とわたり合い、こちらの考えを伝えるということの他に、もう一つ大切な側面があることを忘れてはならない。それは、日本語で生れ育った私たちが、考えてもみないような不思議な考えを持ち、私たちが住んでいるこの世界を、まったく別の目で眺めている人々が現にいるのだという、驚嘆すべき事実に学生達の目を開いてやることに他ならない。

要するに、自分の知っている世界や価値観を相対化して他者の目で自分を見ることと、自分とは違う異質の世界や価値観を認めることに尽きる。

 (菅井三実)