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「お正月といってゆるまず,新年といってりきまず」2004年1月5日
新年あけましておめでとうございます(実質独白なのに,だれに挨拶しているのか)。
いただいた年賀状の多くに「独法化でてんやわんや」などと書かれている。「すったもんだ」よりましだとはいえ大変だ。いろいろとポジティウ゛に考えようとしてはみるものの,国家財政危機という全くポジティウ゛ではない要因が根源なだけに,「高速道路より先に教育を守らんかい!国は人ぞ,モノではないぞよ!」と愚痴のひとつも言いたくなる。えっ,力んでる?
私事,今年で40歳になる。「私にはこれ(職業なりなんなり)しかない」と決意する時期が早い人もあれば,遅い人もあろうが,私には40歳というのがその時期のようで,与えられた20代,選びとった30代,造り上げる40代といきたいものである。ゆるんでいるのはおなかまわりだけにしておきたい。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
「このひと月」2003年12月4日
前回書いて以来、10月末から昨日までのひと月あまりは、あらゆる面で充実していた(つまり忙しかった)。充実し過ぎて身が追いつかない(スケジュール管理ができない)。ぎりぎりだなあと思っていたら風邪をひいた。
この間、授業観察の機会が結構あった。河内小学校、岡山城東高校、川島高校で6クラスほど観察した。また、インタビューテストの開発で、附属中学校(3年生)と岡山城東の生徒(一年生)たちと英語で話す機会をもった。「研究開発」に絡む授業観察というのは、ある程度特殊な環境であることは否めないが、それとて学校の日常の一部には変わりはない。多くの授業、先生、生徒に接することができた収穫は大きかった。その収穫とはなにだったのかを各のが私の仕事だと思うのだが、今日はエネルギー(くすり)が切れたので帰ることにする。があい(息子は最近"Bye"の意味でこういう。「○○ちゃん、バイバイっていうかわりに「があい」っていうことにしたの。」だそうだ)。
「四国英語教育研究会参加日記」2003年10月24日
2年に一度行われる四国英語教育研究会が,徳島県教育会館で行われ,私は分科会のコーディネーターとして,中学校での実践的コミュニケーション能力育成を考える分科会を担当した。
丸亀市立東中学の西山先生と東予市立河北中学の武田先生とのチームだった。西山先生は観点別評価と授業活動を連携させた作文指導(丸亀市の英語部会の取り組み)の実践研究を,武田先生はご自身の授業実践ビデオを交えての授業活動のあり方の研究を発表された。どちらも100人を超える参加者を向かえ,儀式的な研究会に陥らないよう参加者同士議論をかわしあう時間を持てたのではないかと思う。西山先生の発表の後には,「この実践をぜひ自分でもやりたい」という声を多く聞くことができたし,武田先生の発表の後にも,「大変面白かった」ということばを多くの方からいただいた。反省すべきことがないでもないが(実はたくさんある),それは私の問題である。ここでも「運動会vs陸上競技会」のたとえをだしたのだが,意味伝わったのだろうか。
中学校の公開授業を参観した。着藤先生の授業では,New Crown 3のA Vulture and a Childを2年生用にrewriteしたものを題材に,ディベート的議論を含む表現活動が行われた。社会的な内容での議論ということで,2年生には難しいんじゃないの?と正直思ったのだが,難しい課題にチャレンジさせることが着藤先生のねらいでもあった。全員に発表させたこともあって時間がかかったが,周到に準備されており,生徒が立ちすくむこともなく,良い経験になったのではないかと思う。舞台での授業ということで,発言の度にマイクをまわしたり,椅子から立ち上がるのに時間がかかったりして,教室のコミュニケーションのテンポがたびたび狂わされていたのが残念だったが,まあ,こういう授業研究会形式を取る以上しかたがないだろう。
特別講演講師は関西大学の静哲人さん。身につまされる指摘と,すぐにでも真似したい指導の工夫と,やる気にさせられる提案とが全て込められた講演だった。invisible gap filling test (だったかな。clozeのカッコを消してしまって,どこにどんな単語が抜けているかを問う課題)は,問題を解くアプローチががらっと変わる点で,目鱗体験だった。clozeだと前後の単語をにらめば答えがわかってしまうものだが,この出題方式だと,全文読むことになる。invisible gapがどこにあるのか見つけるには,相応の英語力(英語経験)が必要なので,ヒントとして,抜いた単語を下に並べるなどして課題の難易を調整したり,抜く単語を機能語にしたり内容語にしたりすることで,出題意図を変えたりすることができる,そうだ。実際に問題を解いてみた感想としては,速読式に内容把握重視で読んでしまうと多少語彙が抜けていても読み切れてしまいギャップを見つけにくいので,音読(頭の中で)するのがベストなストラテジーだと思った。音読していて「つんのめる」箇所にギャップがあるわけだ。
いろいろ充実した一日だったが,鳴門教育大学時代にお世話になった人たち,当時の学生さんたちや,学生時代からの友人に会えたのが実は一番嬉しかった。一緒に飲みにいけなくて残念だったし申し訳なかった。
「September Rain」 2003年9月25日
そんな"歌謡曲"がむかしありました。「9月の雨は切なくて」とか。今日が雨だから切ないというわけでもなく、そもそも切なくもないのに、昔の記憶がふと浮かんでくるのはなぜでしょう。疲労か。
9月を振り返ると、予定表はゼミと会議が(けっこうたくさん)入っているくらいで、相対的には休めた月だったのだが、ハワイ(でなくても良かったのだが)に行き損ねたのが災いしてか、心の閉塞感が解けないまま月末を迎え、来週から新学期が始まる。
心の閉塞はさておき。
「英語科授業論演習」は今期が最後で、来年度からは「英語学習と対話研究」に改称(という次元の変更ではないか)される。この授業名は、英語教育講座の大学院講義らしいものという配慮から「英語」「研究」などがくっついているが、私個人の思いとしては「対話と(英語)学習」である。もっとイッてしまうと「対話は学習」、最後は「対話が学習」まで行き着くような予感がしている。
今期の「授業論演習」は、参加者の顔ぶれにもよるが、前期の英語授業分析を引き継ぎ、より具体的に授業分析を行うと同時に、それが授業の改善や新しい指導の工夫を生み出す集団的取り組みになるような演習にデザインする心づもりである。
先月の話になるが、加古川で小学校英語教育の講演をしたときに、小学校の英語授業づくりについて「運動会」と「陸上競技会」の対比をたとえにして、運動会的な授業計画と運営をすべきではないかという提案をした。カイヨワの遊び論(吉田、今井、松井、全国英語教育学会2003自由研究発表「小学校の英語活動における学習文化形成−教室のplayfulness再考−」をご参照ください)に従い、競技種目や演技種目がプログラムされ、音楽やダンスや花火(やりすぎか)がプログラムの隙間を埋め彩る運動会は、競技一辺倒の陸上競技会と違って、多様な参加者を受容し楽しませ参加させる器がある。「アゴン(競争)、アレア(運)、ミミクリ(模擬)、イリンクス(眩暈)」という遊びの要素全てが盛り込まれた運動会と小学校の英語授業に類似性を見出すことは容易い。運動会に例えるなんて無責任、楽天的だといわれるかもしれないが、近所の小学校の運動会の計画運営の大変さを日々見ていると、英語の授業と一緒だなと思う。遊びに例えるからといって「楽ちんで楽しい」わけではないのである。ゲーム中心の授業に参観しては「楽しいだけでは英語学習にはならない」とコメントし続ける「修業派教師」には伝わらないかもしれないが、カイヨワの遊び論は遊び論を超えて社会学なのだという事実に真摯に向き合い、私たち教師が理念・実践両面において、遊びを学びと二分し対極におく発想を捨てる時、英語の授業はもっと素直に楽しい学びの場に変わっていくだろう。
ま、「みんな参加する」ってだけで、毛逆立てて嫌がる leave me alone!人間もいますから、授業者は大変ですね。何言っても机につっぷしたまま動かないとか、遠い目をして座っているだけとか、携帯依存とか、いろんな学生さんいますもん。・・・ちょっと切なくなってきた。
「8月がそして過ぎていき」 2003年8月23日
集中講義、学会発表、研修会などPowerBook G4とともに歩んだ夏だった。パソコン(とプロジェクタ)を詰め込んで名古屋の地下街を歩くのは無理ではないが辛かった。しかし映像(動画)のないプレゼンに戻れなくなったのだからしかたがない。モバイル指向もりもりだが、本当に必要なのか、多少疑問は残る。特にプロジェクタは大型テレビで代用できるし、大概のプレゼン先に備えつけてあるものだし、念のためのバックアップと称してうれしげに持ち歩いているだけかもしれない。
PowerPointに代えてKeynoteを導入し、Microsoftワードに代えてEG Wordを使うようになった。IEはSafariに代えて久しいし、表計算が苦手で使わない私のPowerBookには現在Microsoft社のソフトが(使わないIEを除いて)インストールされていない!状態にたどり着いた。EG WordもいいけどNisus WriterもOS X対応になったなあとか、Safariはまだまだ、付属のメールソフトはだめだ、と思わないでもないが、総じてなんともすがすがしい満足感を感じている。PowerBookのデザイン&非Microsoftなデスクトップが相まってとてもシンプル、とてもマックらしくなった。ああ、うれしい。これでUSキーボードにでもすれば、10年弱前のマック環境(Duo 280c)そのものだったかも。
ともあれ各地で出会った方々にいろいろと刺激を受けることができた夏だった。受けた刺激を忘れないうちに、9月は自分の仕事に集中したい。でも少しだけハワイで息抜きしたい。
「プレゼンテーションが楽になった、のか」2003年7月9日
最近PowerBook G4 (12インチ、メモリ最大、Super Drive、Air Mac Extreme つき)を買ったので、DVカメラとプロジェクタ(Plus U3-810SF)を使って、ビデオ映像つきのプレゼンテーションが比較的楽にできるようになった。世間に少し追いついたに過ぎないが、授業や研修会にはとても便利だろう。昨日早速、授業ビデオを編集し、短いクリップにまとめキャプションをつけたものを使って説明してみたが、とても便利だった。
一方で、ビデオ映像の持つ説得力は大きな誤解を生んだり、プライバシーをさらしたりする凶器にもなる。さらに、映像と音声情報を記述し分析している身としては、「実際の映像見せたらいいじゃん」的な安易な方向に流れて、記述のことばを失わないように留意しなければならない。
とはいえ、うれしいなはあ。アルミボディ(シルバー塗装)に、ボディ同色のキーボードなので、外観がクール。でも発熱すごくてホット。プラスのプロジェクタも同色で軽量で映像きれい。あと発表の中身さえよければ、と言われないようにせねば。
「こどもは育つ、私は。。。」 2003年7月1日
今月は年齢がひとつ増える月なので、少しばかり憂うつである。こどもの時間経過は成長と表現され、私の時間経過はそろそろ、、まあいいか。
ずいぶんと更新していなかったが、講座のホームページ更新の仕事が一部回ってきたおかげで、避けがたくGoLiveの使い方にも慣れ、こうして自分のページも更新することにした。もちろんこのページなど、ソフトの使い方に慣れたかどうかが問題になるような気のきいた細工があるわけでもなく、単にウェブサイトをいじる気分が戻ってきたにすぎないのかもしれない。
ひさしぶりに(恥)学会発表をした。授業分析を核にした研究をしているので、授業者の方々との関係を築くのに時間がかかってうんぬんと言い訳をすると、恥の上塗りになりそうで、乗り越えなくてはならない壁があった、ということにしておく。小学校の英語授業における教室のコミュニケーションを、playという概念を鍵にして語った。「教室におけるplay」というのは、特定の活動にはるラベル(例えばゲーム活動なんか想像しませんでしたか?)ではなく、異種のコミュニケーションスタイルが混入することで起こる違和感を指す概念として取り上げたかったのだが、どうも既存のplayということばの意味を押し切るだけの力が今回の発表には足りなかったようだ。これは次回、全国英語教育学会(仙台)での発表の課題である。面白い発表になればいいのだが、、またでっかい壁をつくるだけの結果にならなければいいのだが、、ああ恐い、不安だ。こどものようなスピードで育ちたい。
「新学期」2003年4月15日
マッキントッシュのOSXを導入して以来、お休みしていたHP更新。その理由は、クラリスホームページプロがOS9版だったから。クラシック環境を立ち上げるのが面倒なのと、OSXに慣れるのに手いっぱいだったからだった。晴れて、OSX用のウェブ作成ソフトGoLiveを導入したので、このたびテストを兼ねてリサーチノートを更新している。新学期の授業スケジュールも更新しなければ。
なんだか下の日記は力んでいるな〜堅いなあ〜と思うのは、社にも穏やかな春が来たからだろうか。
「英語育教育研究が『学』を求めるわけ」2002年12月4日
英語教育実践者と研究者というあまり実体をともなわない区分を仮にするとして、両者の隔たり意識は、私達の分野では当たり前のようにさえなってきた。教育実践の正義と教育研究の正義はそもそも別なのですよ、などと嘘か本当か分からないようなことをつぶやいて逃げ回っているわけにはいかない立場(教育大学勤務)に置かれてかれこれ7年目になる私なのだが、その短い(と思う)経験から言うと、研究者がビゴツキーだチョムスキーだ、認知主義だ社会構成主義だとやたら「学」に言及するにはしかるべき訳があり、しかもそれは実践を考えていく上でも不可欠なことだと考えている。
伊達や酔狂で「学問」的に語っているわけじゃない。博なり箔なりつけたくてバフチンがね、なんて言っているわけじゃない。哲学や心理学、言語学に言及するのは、ひとえに「教育目標と学習/指導方法を語るため」である。言語を使いコミュニケーションすることという教育目標とそのための日々の学習実践のありかたを考えることと、自分がバフチニアンなのかビゴツキアンなのかまた違うなにかなのかを考えることとは、私にとっては同義である。
研究において、ひとつの主義を持つことによって、当たり前のことだが、一貫性がうまれる。バフチン的コミュニケーション観に従って実践研究をすすめながら、それを語彙記憶のリテンションを基準に分析することは、相当にナンセンスなのだが、そういう一貫性の欠如はまま見られる。『英語教育』(大修館)で、私の参加した共同研究がレビューされたことがあった。2002年5月号だった。おおむね好意的なレビューをいただいたような気がするのだが、根本的に研究の目的と研究デザインについて誤解を招いていた。そして最後に「数量的なデータに裏打ちされたまとめはできないものかと思うのは、欲張りだろうか」と結ばれていた。数量化するべき研究対象、目的ならば、私はそうしている。何を数量化しろというのかは分からないが、ともあれ、そういう要求は欲張りとは言わず、的外れというのだと思う。レビュワーが数量データを望むからといって、それを付け足せという理不尽な議論ができるのは、「研究=数量化」という多数派の視点ゆえかなと思う。「もっと分かりやすく説得力ある学習場面の提示/記述をせよ」という指摘ならば、次の研究ではきっと!と決意を新たにしただろうに。「学」なり「主義」なりの表明を研究者が責任もって行うべきというのは、こういうズレ、ずっこけを減らすためにも大切だ。
「城東高校訪問記」2002年12月1日
木曜日、岡山城東高校でセルハイの会議があった。
今回は「英語理解」の公開授業が行われた。授業中、教師の指導はほぼ全部英語で行われている。生徒は、グループで英文サマリーをまとめる時や、日本語訳を使う時以外は英語で(を)話す。異文化をテーマにした4パラグラフ500語程度の英文を一気にこなしていた。(う、時間切れ。つづく、かも)
「一度あったことは忘れないもの。思い出せないだけだ。」ぜにーば 2002年11月21日
正確な引用ではないのだけれど、『千と千尋の神隠し』でゆばーばの双子の姉ぜにーばが千にいったこのことばが印象に残っている。2歳半になろうとする息子と連日のようにこのDVDを観ているうち覚えてしまった。 忘れていないけど思い出せない。。こういう表現いいなあ。もう「うっかり忘れていました」と言い訳がましく言うのはやめよう。どこがresearch note なんだろう、こどもの反省文ではないか。
最近の息子の発言「○○くんのパパがね、おこったの」(○○は自分の名前。つまり私が怒った、となぜか私に向かって言う。互いが当事者でありながら、あたかも第三者同士の会話のように装うこの発言はいったいなんなのだろう。教室の会話分析のように難しい。。。)
「4人組」2002年11月18日
今期は学部の英語コミュニケーションの授業が多い。
会話量をとにかく増やそうという意図で、4人組みの学習グループをつくっている。ペアにも割れるしディスカッションもできる人数として4人が適当かと思う。4人でクラス全体の英語活動をリードさせたりもするが、大抵4人で授業中英語で話す/書く活動を続けることが多い。生徒同士で英語を話せといっても、すぐ日本語で話し出してしまう恐れを経験上もっていたが、4人という人数が「日本語はなしちゃまずいかな」程度の拘束力をもちつつも、「英語はなすの恐い」と思う程の緊張感は与えていないのだろう、かな、英語で会話を維持しながら楽しんでいる様子が伺われる。
自分の英語力でやりくりができるレベルの話題と、興味を持って話を聞いてくれる友人がいること、このふたつを保証することは大切だと思う。聞き手のレスポンディング(レスポンドしている時の多くは「話し手」なのだが)の練習や、グループでの会話維持の練習などをwarm up活動で行いながら、話し手が話しやすい雰囲気づくりを心掛けている。
「兵庫教育大学スクールパートナーシップ事業」 2002年10月09日
表題のような事業をはじめることになった。
いわゆる講師派遣事業で、無料で学校に教育支援にまいりますという内容。
私は教科指導関係で「英語科授業の改善方法」と「コミュニケーション活動の充実」のふたつのテーマを提出した。オーラルコミュニケーションの授業で、活動中心の授業をやったあとに「楽しいだけではだめだ」「学習内容が定着した実感がない」と後悔してしまう方がいたら、そういう方々を元気づけにいきたい。元気になってもらえるかどうか、、、試しに呼んでみて下さい。
こどもが最近「○○して」と言ってくる。例えば、
「ぱぱ〜、ぱぱ〜、「どれがすき」して〜」(とトミカのカタログ本を開けてもってくる)
「○○ちゃん、どれがすき?」
「えっとね〜、これ!赤いのぶーぶ。」
「そうか、赤いぶーぶがすきか」
「ん。にっさんぜっと。ぱぱはどれがすき?」
こんな感じ。これを何度も繰り返す。「○○して」攻勢は大人を精神的に消耗させる。子供としては、質問されて答えるのが嬉しくてしかたがないのだけれど、ちゃんと答えることができる質問が限られるので、それを指定してくるような感じか。少し前までは「今日のおにぎりの中身は?」「しゃけ」「しゃっけに、きめた」とか「どんな色がすき?」「あか」「赤い色がすき。一番先になくなるよ、赤いクレヨン」などという風に、子供が質問に答えるパートがある歌を、子供と一緒に夫婦で何度もさんざん歌っていた。
何度も繰り替えしたくなるほど嬉しい感情、コミュニケーションへの衝動を目の当たりにすると、「もうその話さっきしたぞ。何度も言わせるな。」なんてよくいう情報交換ばかり意識する大人のコミュニケーション社会の住人である自分の姿がみえる。
「にっさんかいらいん」=スカイライン、「ろりあ」=グロリア、と日産車ばかり覚えて、トヨタ車には目もくれないことの方にも私個人としては関心があったりする。スバル車となると、インプレッサもレガシイもB4もみんな「ママの」だ。う〜ん。。
「スーパーイングリッシュランゲージハイスクール」 2002年9月25日
ひとつき遅れの夏休みだった。
世間の3連休+夏期休暇3日の6連休だったが、その最終日は岡山城東高校を訪問し、授業観察をさせてもらった。高校の授業を観察する機会が過去ほとんどなかったので、収穫が大きかった。岡山城東高校は、文部科学省のスーパーイングリッシュランゲージハイスクールの1校であり、また国際科を有するため、英語教育には相当な力が注がれている。5つのそれぞれに非常に異なる授業を見ることができ有益だった。これについては機会をあらためて紹介してみたい。ひとつだけ言えることとして、よく「生徒が優秀だからこそできる授業」という言い方をするが、生徒の学力うんぬんはともかく、この日一日学校で過ごして思うのは、生徒と教師のコミュニケーションが日頃からとれている関係の上に築かれている授業は、とてもよい時間の流れかたをするものだということだった。「生徒が優秀だから」は言っても聞いても後悔するセリフだよね。
静かにひっそり更新再開 2002年9月4日
再開しようと思う。
夏休みの間、兵庫県・神戸市の教員免許認定講習で「英語科指導法」を担当し、名古屋学院大学大学院集中講議で「英語教育方法論」に出講し、つい先日は、英語教育指導者講習(第8ブロック四国)で、英語教育とコミュニケーションの講議をした。互いの内容に重なりのある講義題目だったので、回をおうごとに言葉が重なりあい、自分の議論に確信めいたものがでてきたようなのだが、それをうまく体験的に、しかも英語の授業場面に即して、ついでに英語で伝えるのは(英語教育指導者講習は全編英語で行われる)なかなか容易ではなかった。Voice Revoice Entrust Ground Rhythm Co-responding などの鍵概念をもとに、そろそろコミュニケーション学習論について「中間答申」程度でもいいから開示し一区切りをつけたいと思う。そういうことをしないまま、呼んでいただくままに人前でお話をしにいくのではダメなのだ。静かにひっそりと宣言しておくと、今年度中にまとまった論文を書こうと思う。
授業研究と英語教育研究 2002年2月26日
質的な英語科授業研究の理念と方法について「第5回卒論修論セミナー」という関西英語教育学会とJACETとLET共催の会合でのシンポジウムで話をしてきました。ふたりが20分の提案を行い、その後紙面での質問に30分間答え続けるというスタイルでした。英語教育というのは学問領域ではなくフィールドであり、そのフィールドを研究するというのは、例えば老人介護施設というフィールドを研究するためにその現場へ足を運ぶのと同じように、英語科の学習現場である授業に足を運び、そこで何が起こっているかを観察しなければならないのではないか。老人介護に必要な道具や組織づくりや職員養成研修の研究も老人介護施設をよくするための研究であり老人介護研究かもしれないが、それは老人介護「に関する」研究であって、老人介護「の」研究とは区別して考えたい。その意味で英語教育「の」研究は、フィールド研究だと話してきました。その反応は、はて、どうだったのでしょう。私の決意表明のようでもあり、そんなもの聞かされてもねえってところでしょうか。いろいろと質問はいただきました。
二百年がたち 2002年1月23日
隣人に日付が2202年になっていると指摘されました(下の日記)。それまで元気に生きていられたら、なかなかの哲学者になれているかも。いや、単に口うるさいじいちゃんかな。
200年後に外国語教育、そもそも外国語という概念は意味を持っているのでしょうか。案外、相変わらず辞書ひいいてたりしてね。200年後の外国語教育となると想像することすら難しいですが、20年後の英語教育くらいはちゃんと想像いや展望、あるいはがんばって計画くらいできなきゃいけないと使命感を感じたりします。明日の授業の準備が先か。
アフガニスタン支援会議(正式名称忘れました)で、演説する小泉さん、田中さん、緒方さんらの英語を聞いていると(緒方さんは別格として)、堂々たる話しぶりだなあと感じました。英語が流ちょうで、大仰なジェスチャーに笑顔で話していたりすると「アメリカに媚びている」とか「自分を捨てている」と、私など思うものですが、かられの場合、日本語で話すときも同じようなジェスチャーと笑顔ですから、自然に英語が話せる政治家さんなのでしょう。宮沢喜一さんは英語が堪能だ、などと英語力が殊更とりだたされるのはもはや過去のことで、閣僚のなかでは世代(?)交代が済んでいるんだなと思います。演説の場などで、言語を選択できる自由を身につけることが、政治家として当然だという時代になってきたのかなあ。
お茶の間のテレビで宇多田ヒカルが英語を母語のように話し、草薙剛が韓国語で韓国人と笑い合っている姿を見るインパクトは、若い世代には相当なものだろうし、英語で演説する政治家の姿も、それに続く世代の人間(政治家に限らず)にとってのthreshold 敷居になるでしょう。目の当たりにすることは少ないのですが、企業の世界での言語使用の変容はもっと早く済んでいるでしょう。「外資系」企業が自動車産業をはじめいろんな分野でデフォルトになり「外資系」という言葉が使われなくなっています。英語を教える教師の世界では、そんなthreshold、デフォルト、あるいはインパクトあるモデル、は何になるのでしょう。あるのでしょうか。当然できなきゃいけない教育実践、越えて行かねばならない最低目標、目指すべき実践、といったものを提示できなきゃいけません。
うっ、英語の学習と教師の教育実践を一緒にまとめてしまっった。ややこしい。
授業が終わる 2202年1月21日
新しいホームページはデザインやコンテンツを一新してから公開しよう!と考えていたら年末に修正暫定版をアップロードしてからまた一ヶ月すぎてしまった。もうとりあえずいいや、ということで鳴門のページに告知をして公開することにした。
今年度分の授業も大学院の一部を除いてすべて終わった。学部の英語コミュニケーションの授業では、直接的に英語教師としての実践力が問われた。大学生相手に、体を動かそう、演じよう、良い聞き手になろう、と言い続け、それなりの授業活動を作ってきた。学生も私もまだまだながらも、結構改善されてきた気がする。端的に言って改善された点は、これまで教室のなかで学生たちは教師である私の視線だけを受けて(気にして)受講している状態だったのが、現在では隣近所の学生の視線を感じながら振る舞えるようになったことである。大学の授業は90分と長い。40人のクラスの場合、私からの1/40の視線を浴びるだけでは、ほとんど視られていないに等しく、下宿でひとりで長めのテレビ番組を見ている状態と変わらない。これが、友人からの4なり5なりの視線を浴びていれば、自然と学生は「社会的振るまい」を意識的に見せるようになるので、声もでるし体も動くし役割も演じるようになる。
そういうことを授業実践から感じた一年だった。「たったそれだけ?グループ活動やっただけじゃないの?」って簡単に片づけないでくださいね。
兵庫教育大にてHPを開設するにあたって 2001年12月17日
なんとか新しいホームページを早く立ち上げようと思いつつ、年末になってしまった。鳴門と兵庫の両大学で半期内に一年分の授業をしている疲れがたまっているのか、単に年をとったのか、馬力がなくなり物忘れが多くなり、立ち上げが遅れた。一年で二年分の授業をするのが物理的に可能ということから、授業が我々の仕事の一部でしかない(けっして仕事の少ない、じゃなくね)ことが分かる。とはいえ、9月に二つ目の集中講義を終えて、兵庫への引っ越しを済ませた時点で、マラソンを走りきり、ゴールしたような感覚に囚われた。私は高橋尚子さんではないので「もう一回続けてマラソン走りたいくらい楽しかった」などと笑顔でいえない。今は冬休みが待ち遠しい。
最初でおそらく最後の「英語科学習論」の集中講義や、全英連高知大会での分科会など、本来ここに記録を残しておくべき経験もしたのだが、記録をここに残す余力がなく残念だ。
疲労感は年末までに一掃して、活力みなぎる新年を迎える予定。モノローグで構成してきたこのホームページも、来年はコラボレーション、ダイアログ、コミュニティをキーワードに新コンテンツを展開していきたいと考えている。
なごやは都会だ 2001年9月4日
名古屋学院大学大学院の集中講義を「さかえサテライト」という出前キャンパスで6日間行った。じんましんがでるし、二日酔いはするし(これは自分の勝手)で肉体的には大変だったが、収穫の大きな一週間でもあった。授業メモを拡大的にまとめて後日アップする予定。
余談:弟と久しぶりに飲んだ。彼とは全く同じ腕時計を偶然に二度もそれぞれ別の場所で買っていたことが続いた間柄で、兄弟だから趣味は似るのもと思っていたが、今回会ったら同じ靴を履いていた。もしかしたらパンツの柄まで同じかとも思ったが、それは確認しなかった。ちなみに双子ではない。
「教室文化」を研究するはずが 2001年8月21日
全国英語教育学会広島研究大会で「授業者の声 熟練教師の英語授業観、生徒観」と題した研究発表を行った。その研究過程で学んだ研究方法上の課題と教室文化について明らかになったことをまとめておきたい。
研究方法上の課題:キャリアヒストリーを扱うことについて
前回2作の論文でもキャリアヒストリあるいは学習歴といったものにスポットライトをあててきた。教師のもつ歴史性が少なからず授業観、生徒観、学習観に影響するとの考えから、授業分析と教師の歴史を並列して進めてきた。第2作および今回の発表についても、分析1「インタビューに現れるキャリアヒストリー中心の分析」分析2「授業の発言を中心にした学習観や生徒観の分析」といった具合の構成だった。しかしながら、振り返って一読者として読み返してみると、この構成が暗に「こういうキャリアを積んできたからこういう授業をする人になった」という因果性を含んだメタメッセージを伝えることになる可能性を感じた。分析1と2には、ストレートな因果関係など含意するわけではないし、逆の構成にしても「こんな授業になったのはそもそもキャリアが」と読まれかねないだろうから、要はキャリアヒストリーを大々的に取り上げることの怖さを実感したわけだ。
これまで3本の研究を通じて、授業は授業者の振り返りを促すcueであり、研究者が読み取ったteachers' beliefの確からしさを確認するreferenceに過ぎないと考え、そう述べてきたが、逆にインタビューをreferenceにした、授業の出来事の読みとりを中心とする研究手法の可能性について考えはじめた。広島から帰って、ある小学校での英語授業のビデオを見ていたら、生徒と先生の間の相互行為(コミュニケーション)のルール(基盤)が潜在化していない(「何々して」と言わなきゃ生徒が動かない)場面や、また学習以外の意図によるルール(生徒が先生にちゃちゃを入れる場面や「黒板見えんかったら言うてよ〜」などの授業進行上の問題に生徒を参加させるなど)がけっこうあることに気がついた。なぜそういうルールを教室に取り入れているのかといった授業からだけでは分からないことをインタビューを活用したり、あるいは複数の授業者の授業を対比して特徴を際だたせたりする研究にしていけるとよいかもしれない。
授業文化、あるいは先生と生徒のコミュニケーションの多層的基盤について
授業は、先生と生徒の相互行為(コミュニケーション)に他ならない。そしてコミュニケーションのルール(基盤)が教室にはいくつもあり、それに則って行動できない生徒達は、いわゆる「落ちこぼれ」と言われたりする。しかし、生徒が勝手に落ちこぼれたのではない場合も多く、先生がコミュニケーションのルールを無視したり、勝手に変えたりしたことで、生徒が傷つき落ちこぼれることもある。私はそうやって何人もの子供を「落ちこぼした」経験があり忘れられない(気がつかなかったことさえあるだろう)。
先生と生徒ひとりひとりがいろんな話をするのが教室のコミュニケーションではない。例えば「先生が話しているときには生徒は全員だまってきく」のもコミュニケーションのルールである。ゆえに、水を打ったように静かな教室というのも一種のコミュニケーションが成立しているケースである。
そういうルールが生徒との間でたくさんつくられている授業は見ていて安定感がある。例えば英語の授業の場合ならば
などなど先生主導の決めごとだけでもいろいろある。これだけチャンネルがあると、生徒も授業に参加しやすい。一方で、
というルールしかない教室では(今時少ないと思うが)、参加し損ねたらすぐ落ちこぼれるが、多層な基盤の授業では、英語の力がなくても「わから〜ん、先生」とまぜっかえすことが許される。そういう間口の広さ、参加の容易さを保証できる。上記のコミュニケーションのルールを先生が生徒にうまく浸透(潜在化)させたり、意識的にコントロールできる(今日はチャチャいれさせない、とか)ようになることが、授業者としての成長なのだろう。あるベテラン先生の授業を分析したら、生徒に何も指示をしていないのに、先生が英語を話すとすぐさまリピートする。こういうルールの潜在化、あるいは先生の意図を積極的に読み取ろうとする教室づくりができたら良いだろうと思う。
授業はコミュニケーションだ、だからそのコミュニケーションを英語学習に生かさない手はない。教室の場で、言葉を学ぶためのコミュニケーションが行われていることを忘れず、それを利用していきたい。英語を使う場を「教室の外での外国人との会話」に求め、そういう将来使うかもしれない場を想定した指導をするよりも「今ここ'here and now'」を利用する方がよい。こういう提案は「耳にタコ」ではあろうが、教室の決めごとを積極的に生かすかたちでの「今ここ」の重視の大切さが当たり前であればあるほど、その実現がされていないことが奇妙に感じる。授業がコミュニケーションだと思っていないか、授業のコミュニケーションは日本語で行うと決めてかかっているか、コミュニケーションを「街や旅先で外人さんとお話しする」ことくらいにしか解釈していないことが原因か。授業は「教室でコトバを学ぶために先生と生徒がおこなうコミュニケーション」であり、そのためのルール(基盤)づくりが授業者の大切な役目である。
おすすめ
教室でのコミュニケーションルール(教室文化)を浸透させる、あるいは過去のルールを変更するのは手間と工夫が必要ですが、生徒とのコミュニケーションを大事にしている人なら必ずできるので、トライしてみてください。他の先生の授業もそういう視点で観察してみてください。いろんな種類のルール、顕在しているルールと潜在しているものなど、たくさん見えてくるんじゃないかと思いますよ。
授業日記ほか 2001年7月31日
今日で一学期がおしまい。明日から夏休み。私の鳴門での授業も、最後に集中講義「英語科学習論」を残すのみとなりました。最後の一週間は既に16講目に入っている授業がほとんどなので、実際授業が行われたのは、英語科授業研究、英語科課題探求、オーラルコミュニケーションだけでした。
英語科授業研究(7月24日)
2グループの発表でした。時間は比較的ゆったりととれたため、詳しい発表が聞けました。やはり分析にはたっぷりと時間と労力をかけなければならないと実感します。即興的、状況的、多元的、文脈的な思考を絶えず再構成してゆくことが熟練教師の特徴だと佐藤学さんは書かれていますが、なかなか多元的思考、文脈的な思考というものは一朝一夕に身に付くものではなく、ひとつの事実(授業場面)を見て、それを印象に基づいて解釈してゆくだけでは、複数の研究者の解釈がうまくかみ合わず、柱が何本立ってもそれを繋ぎ合わせる関係がないと建築物にはならないのと同じ状態を呈してきます。
今回のグループ研究は、しっかりとかみ合った解釈から授業文化を読み取ることができる分析もあれば、柱が互いによそ向きながら立っている分析もありました。失敗(とあえて言いますが、実際はそれほどでもない)も成功も両方経験できたのが最大の成果でしょうか。
オーラルコミュニケーション(7月25日)
最後の授業は外へ出て昼食会でした。今までずっと隠し続けてきた(私が気がつかなかった)皆さんの個性がよく見えた食事会で、これなら4月の最初にやれば授業がもっと活気づいたかなとも思いました。お別れのプレゼントいただいてありがとうございました。
余録ながら教育実習のオリエンテーションと日程が重なり一週はやく授業が終わった3年生「英語科教育特論」の打ち上げ会もありました。わがやでのパーティなのに、ほとんど全部準備してくれた皆さん、ありがとう。色紙大事にします。
英語科課題探求(7月27日)
最終回は自己評価と教務課に提出する授業評価を書いてもらいました。その夜は、大学院生の一学期お疲れさん会に参加。またまたお別れ会をしてもらった。あと2ヶ月いるんですけどね。プレゼントとお花をもらったのは嬉しかったけれど、カラオケで歌ったのは恐ろしく恥ずかしかったです。
ご覧の通り、最後の一週間は教育活動をほとんどしていません。むしろ学生さん達と一緒にテーブルを囲んで話をすることで、いろいろと勉強になりました(書きたいけど、書けないことが多いかな)。さて、一学期間なんとかだましだまし続けてきた授業日記も今日でおしまいです。お読みいただいた方々に心から感謝して終わりたいと思います。皆さんの教育研究活動が今後も豊かで実り多いものになりますように。
失速 授業日記 2001年7月23日
夏生まれなのに夏に弱く、10日あまり授業日記が滞ってしまいました。しかたなく、この10日あまりの分は、薄い記憶をたどりつつかいつまんで書きます。
オーラルコミュニケーション(7月18日)
最終回は自己評価なので、今回は期末試験だった。学生同士のふたり組or 3人組で「コミュニケーションスタイル」についてトークをし、それをビデオ録画する。生徒自身にしかわかり得ないこと(自分の考えを十分に表現できたか、など)は自己評価し、第三者の方がよりわかること(曖昧でない言葉や発音で表現できていたか、など)は教師(私)が評価することにした。自己評価のポイントには、教師側がもうけた項目以外に自分自身で目標を二つ設定させた(このテスト手法は、徳島の中学校英語教員をされている福田恵さんの実践を使わせていただきました)。トークのサブトピックを5つもうけ、事前にグループで打ち合わせをさせるが、試験直前に5つのうち二つのトピックをくじびきで決めて1分以内に会話をはじめるため、「準備は出来るがシナリオ通りにはいかない」テストになる。普段の授業では「英語を話せる人」に成りきること、相手の話を相づち打ちながらよく聞くこと、リラックスすることなどを重視しているので、8-12分間のテスト時間中ずっとトップギアでベストパフォーマンスを出そうとするのではなく、人の話もゆっくり聞いて、8-12分のうち、思い通りに話せるのはほんの短時間でもいいよ、と伝えた(つもり)。
果たして結果は、どのグループも予定時間終了チャイムを鳴らすと「え、もう終わり?」という反応を示したことからもトークに集中できた様子だった。ある生徒のコメントに「楽しい空間だった」というのがあった。ビデオの存在はおそらくそれほど脅迫的ではなかったようで一安心した。英検の面接テストのように、対話者が評価者という極めて不均衡な関係(受験者には面接官を評価する権利がないという点で)での脅迫的なテスト環境を避けたいと思っていたので、ほっとした。
こういうテスト方法には、公平性、客観性がないなどの批判もあろうが、それには反論できるし、それよりなにより、テストの後にコミュニケーションした充実感を味わい、次もやってもいいかなと思えることの方が大事じゃないかな。英検の面接の受験経験は一度だけあるが、二度と受けたくないと思ったし(幸い合格したので二度と受けなくてよいが)、10年以上やった試験監督経験から「後々、街で受験生とバッタリ会ったらいやだな」と思った。「テストなんてそんなもん」などと諦めては(開き直っては)だめなのである。
英語科教育特論(7月18日)
教育実習を控えた学生さん達に「これだけは実習中にやってみたい」と思うことを語ってもらい、決意表明兼、本講義で学んだことの自分なりのまとめをしてもらった。現職教員の院生さん(長岸さん)には、それぞれに対して励ましとアドバイスをしてもらった。その日の夜は、自宅へ皆さん来てもらって「打ち上げ」をした。手巻き寿司を準備してもらいごちそうになった。子守もしてもらった。どうもありがとう。
実践基礎演習(7月18日)
シナリオで学ぶ英語第二回はFRIENDSを使った。またアメリカかい!言行不一致甚だしい!と言われそうだに。まあそこは見るポイントを変えたりしてカバーするのさ。私の人生経験の半分しかまだ生きていない一年生は、まだまだ吸収する余地の多いスポンジくんたちなので、速くってさっぱり分からなかったセリフが最後には自分で言えた上にばっちり聞き取れたらしく、学習効果を納得してくれていたように思う。最後に各自で過去5回分の授業についての自己評価、採点をしてもらった。
英語科授業研究(7月17日)
本講義のまとめと授業研究会への応用の提案。「逆さま」にその内容を載せる予定。次回は最終回でグループ研究の発表。
課題探求(7月13日)
グループ研究「文化理解、コミュニケーション、学習論の観点からの中学校英語教科書分析」を、各グループ15分という短時間で発表してもらった。他グループの発表に対してはコメントカードに感想や質問を書いてもらい、発表グループへのフィードバックとした。それぞれコメントを参考にfinal touch的加筆修正をして、レポート提出を次回してもらう。個人レポートの締め切りは8月10日。次回は、授業評価(大学院教務提出用)と自己評価。
ゼミ(7月13日)
略。次回、それぞれおふたり別々に「夏休みの宿題」を出す。あさがおの成長日記的な事例研究か、工作のような創造か、お天気調べのような文献読みか、はてさて。ぬうう(悩んでいる)。
授業日記 2001年7月11日
実践基礎演習
英語の学び方、第一回。映画を使って「変身」しましょう。すこしずつ。英語を使う人に「なる」ための練習のしかた。ハリウッド映画を使うことに抵抗があるのだけれど、彼らが思い描く英語の使える人(通訳、戸田奈津子、翻訳家、ホテルウーマン、ツアコン、英会話の先生)なんかが登場するビデオって持っていないんですね〜。戸田奈津子さんへの英語のインタビューなんてありそうなものだなあ探せば。(といいつつ座ったままの私)
英語科教育特論
熟練教師の授業を観て、しっかり観て、何が違うか解説を聞いて、今度の教育実習で自分に何が出来そうか考えてみましょう、の第一回。単語フラッシュカードやフォニックスの使い方、使う意味。先生あてゲーム(Who am I?の派生型)の効用、などなど。来週「教育実習中の私の課題」と題して、参加者にそれぞれ語ってもらう。なにがでるかな、、、
オーラルコミュニケーション
コミュニケーションスタイルに関するディスカッション。二人組で一方が意見を言い、相手は聞き手として質問をする対話からはじまり、互いが自分の意見の言い合う対話を経て、4人での討論スタイルへと移行した。自分の言いたいことに集中し出すと、becauseが「だからああ」(というときの甘えたイントネーションあるでしょう)と同じ言い方になってしまうので、注意を喚起。単語を雨だれ式につなぐのではなく、フレーズをつなぐ(単語をまとめてフレーズをつくる)心がけをと指示。しゃべるときに手を使うよう促した。いつまでも言葉が絶えず、話が続くので感心していたら、結構日本語も聞こえてきた。なかなか言いたいことが全部言えていない様子。言いたいことがいっぱいあるのは良いことだ。
英語科授業研究 研究者のポジション(7月10日)
研究者が論文ないし報告書を書くことによって授業者と読者の間をつなぐわけだが、イメージとして研究者の位置はどこになるのだろうか。グループ研究報告をまとめるにあたって、報告書を書く際の、書き手と読み手の書く対象との関係について確認した。
立ち位置を間違えると、いろいろトラブルが起こる。パターン1:研究協力をしてくれた授業者が傷つく、あるいは怒る。パターン2:授業者や読者が「研究者の独善!エゴ!偉そうに!」などと怒る。パターン3:研究者が「自分が書いてもだれが書いても同じだ」と独自性の無さに怒る。パターン4:読者が「どんな授業だったのかさっぱりわからない」と嘆き、怒る。ま、これくらいにしましょう。
1は研究者が授業者の思想の代弁者として全く機能せず、授業者に向かい合って批評者、評価者になってしまうパターン。2は研究者が授業者や読者を下に見る位置に立ち、神のように振る舞うパターン。3は研究者が授業者の後ろに立って「通訳者」になるパターン(no offense intended, 通訳者の方)。4は研究者が授業者の前に立ちはだかり、読者に授業者の姿が見えず、言葉が伝わらないパターン。
研究者は自らの解釈を述べる主体性を堅持しながら、授業者の意図、意思の代弁者でもあることが望まれる。そんな語り手になりたいものである。
授業日記 2001年7月6日
ゼミ Firth and Wagner(1997)がぴったり
今日のゼミの話については、報告できる部分についてだけ、日を改めて書くつもり。
課題探求 学習論のまとめ
acquisition vs appropriationで学習の捉え方の転換を図ってきたが、最終的にどういう立場をとるかは各自の選択によらざるを得ない。ただ、とにかく学習観が変われば授業の目的も評価も変わることを伝えたくて、ある授業のビデオを観察した。その授業は生徒が英語で記者会見をするもので、公開授業だった。この種のイベントないし企画に合わせて準備しお披露目する類の授業は、acquisitonの観点から見れば、最終的な「お披露目」よりもその準備の過程が学習にとって大切であり、最後のイベントは「おまけ」で「やらせ」であり「極端な話モデルダイアログのプラクティスと大差ない」と否定的に評価されることがある。しかし、appropriation的に捉えれば、この最後のお披露目こそ「本番」であり、英語を使う自分に「なる」瞬間であり、コトバの使用者として自立する実感を得ることである。そういう目で見ると、インタビューを受けながら堂々と応えたり、I love her.というのが恥ずかしくて言いよどんだり、しっかりと「なる」自分を受け止めている様子がうかがえる。
もうひとつの実践例として、スピーキングテストの開発を行っている先生が、生徒に書かせた自己評価の一部を紹介した。そこで生徒は「本物らしく演じる」ことを目的に挙げ「少し偽物っぽかった」自分のパフォーマンスを反省している。また別の生徒は、このテストを「オーディションみたい」と表現し、次のテストを楽しみにしていた。「こんなテストは学習成果を測るテストとしては不適切だ」などと切り捨ててはいけない。実践的コミュニケーション能力(なんちゅうネーミング)を英語教育の目標に掲げるということは、こういう「英語を使う自分」と対峙する生徒を支援することなのだ。ヘビーな話だと思うが、その自覚、覚悟なしに教師が「コミュニカティヴ」などと言ってはいけない。
来週はグループ研究の成果発表会。
授業日記 2001年7月4日
英語科授業研究(7月3日)
分析が進む。インタビューを丁寧に読み込んでいくと、授業者が語っていないことからも、授業者の考えを推し量ることができることがよくわかる。まあ「憶測」ではないにせよ、語っていないことを根拠にすることには問題があるかなあ。
「議論がかみ合わないときに」どうしたらいいかについて少し話した。まあ「テクストに返って考え直す」のが一番だが、それ以外にということで書いた短文は「逆さま」の最後に掲載しておく(授業ではプリントして配布してある)。
小中学校実践基礎演習(7月4日)
自分の英語学習法は、実は授業で教わった方法そのままだったりすること。それゆえ、あまり授業で重視されていない「発音」の学習などは、個人の学習としては根ざしていないことを確認し合った。先生は教科書があるからそれに沿って授業を組み立てるのではなく、自分が良いと考える英語の学習方法に沿って授業を組み立てるくらいのことをしないと、生徒に与える影響が大きいよね〜などといいながら、そんな良心的な授業のひとつを取り上げビデオ観察した。その感想をグループで話し合った。分析的に授業を捉えている人あり、直観的に感じたことをなんとかコトバにしようとする人あり、生徒の視点あり、教師の視点あり様々だった。自分がこれまで学習者として「好き」「きらい」「面白い」「つまらない」で済ませてきた英語授業の感想が、教師になろうとする時点で、全て自分に降りかかってくることを自覚し「良い授業、良いと自分が思う教師をめざしてこそ」などと説教めいたメッセージを送った。
あと来週から2回続く「英語学習法」のイントロをした。ありのままの自分のコトバ(日本語)を英語に転換するのが英語学習じゃないんだ、「ある」自分から英語を話す人に「なる」自分への転換なのだという話をした。「そんな人格の変容まで促すような英語教育が、生徒にとって良いことなのだろうか」という疑問に最近また悩まされているが、まあ英語を学びたいと思った時点で、そういう覚悟(自覚)をしなければならない現実を一年生にも踏まえて欲しいと思いしゃべった。
英語科教育特論(7月4日)
近藤先生特別講義第二回。なかみはわからない。
オーラルコミュニケーション(7月4日)
KumikoとSteveの言い争い第二回。男と女のCommunication Styleの違いについてSteveとKumikoに分かれて、言い争った。最初はスクリプトを読み演じることを重ね、その後、このスクリプト中のissuesである「本人のいない間に彼の部屋の掃除をする彼女」「男の友人と話している時とすっかり態度の違う彼」(危ない話題だあ)について、自分の考えを交えながら言い争いの「延長戦」をした。結構本気になっている人もいた。
言い争いスクリプトを読み演じる際、相手のせりふを聞いている間のリアクションが大事で、スクリプトに目を落として自分のせりふの番を待つのではなく、相手を見ながらあいづちをうったり、反論の仕草をしたり声を上げたり、いろいろつけると、自分のせりふにも感情が乗ってくる。こういう練習をいわば「助走」にして、自分の考えを乗せてコミュニケーション空間に「離陸」してゆく、そういう段階的な学習活動の一環として考えている。学生さんは今のところ、積極的にやっているけれど、最終的に「離陸」して、ひとりで「飛行」できるところまで実感できるかどうかが問題だ。さながら昔あった「鳥人間コンテスト」のような危うさを自分の授業に感じる。
次回はコミュニケーションスタイルについてのシナリオなしのディスカッションにトライする。
お礼 2001年7月2日
このページを読んでくださる方が学外にも何人かいらっしゃる。特に直井さん(武蔵大)と吉田さん(兵庫教育大)には、丁寧にコメント、ご意見、私の悩みに役立つ書誌情報などをいただいているので、記してお礼を申し上げたいと思います。あと一ヶ月、なんとか続けたいと思います。
明日があるさ 2001年6月29日
っぜみ Swain集中砲火をあびる、の巻
SwainのThe Output Hypothesis and Beyond: Mediating acquisition through collaborative dialogue.(Lantolfの本のChapter4)を読んだ。なぜdialogueでないといけないのか全然この例から伝わらない、といった批判など論文の肝の部分がおかしいという議論のあと、「最近、読む論文ほとんど最後にVygotskyが出てくるようなんですけど、流行なんですか」と西澤さんの厳しい一撃。著者擁護をあきらめた私が「なぜこの論文がこの本に収録されることができたんでしょうね」と言ったら、松井さんが「他を引き立てるためじゃないですか?」ととどめ。で、あえなく撃沈。
さて著者本人を目の前にして同じ事が言えるか?恐れを知らない我々の進撃は続く。来週のFirth and Wagner(1997)の運命やいかに?! (集中砲火、一撃、撃沈、進撃って、研究は戦争か?)
課題探求 (6月21、28両日分)
課題探求で、Lantolfを読んでいるには明らかな複線がある。この授業では学習指導要領を咀嚼しつつ英語教育の目的を各自が語ることから始まり、異文化理解とは何をすることなのか、(実践的)コミュニケーションにおいては何が起こっているのかについて順次議論してきた。両者をつなぐ概念として関係性で捉えるアイデンティティを持ち出して、文化理解は「外国事情」「言語への関心」「自国文化の見直し」ではないこと、コミュニケーションは「情報伝達」でも「相手の意図を正確に理解する」でもないことを確認し合った(つもり)。(じゃあ何なのか、何が起こってるのかについては既に下に書いているので繰り返さない)
外国語使用を「知識を取り込み(内在化し)それらを駆使すること」と捉えるAcquisition metaphorは、この授業で考えられている文化理解とコミュニケーションを説明するメタファとして不適切であり、それに変わる学習理論の提案必要になり、Lantolfに至る。文化理解論、コミュニケーション論で英語教育において「何を学ぶのか(どんなことが育つのか)」が明らかになり、学習論でそれらを「どう学ぶのか(どんなふうに育つのか・育てるのか)」が明らかになる予定である。
21日の講義要約
Acquisition metaphor では、文法、語彙、音声などの情報が計算機によって処理されコンテナに蓄積されることを「言語獲得」と捉えていた。Bialystokのanalysisとcontrolを縦横軸にとったモデルはSLA文献で頻繁に紹介されている。その当時Acculturalation modelという提案があった(Schumann)acculturalationとは、 a process in which changes in the language, culture & system of values of a group happen through interaction with another group with a different language, culture and system of values (とLongman Dictionary of Language Teaching and Applied Linguisticsに書いてある)を意味する。この提案は私が読みとる限りでは、SLA研究の傍流であり、あまり注目されなかった。その理由は様々あろうが、当時、language scienceとしてのSLA研究という考えが研究方法論の主流を占めたことにあるかもしれない。objectivityやらfalsifiabilityなどの概念が飛び交っていた。実験研究では対象になる被験者の主体性など認めないのにsubjectと呼ぶ(subject without subjectivityとLantolfらは表現する)ような研究姿勢では、人が行為の意味を考えたり意思決定したりする基礎部分の研究にはなり得ない。そこでBrunerのようなtime, situation, spaceを踏まえたnarrative based researchの可能性が考えられた。このアプローチだと、人の行為選択やら意思決定などに関わるregulatory principleを描き出すことができる。内言の外言化をはかることで、学習者の自己(自分らしさ)の視点から行為を見ることができる(というほど事は簡単ではないけれど)。
このような手法でアプローチしようとする先にある言語学習とはいかなるものなのだろうか。(とここで力つきた。上の講義要約わかりにくいので、書き直します)
授業日記 6月27日
小中学校実践基礎演習 だれと英語を話すのか
学習歴を振り返り、自分の英語学習への意欲を支えてきたものは何なのかを考えた前回の授業の宿題「こだわりチャート」を持参してもらった。グループで自分の学習歴を語りあうことで、英語学習者としてのより強固な自覚が促されると良いなと思う。その話し合いの中で、互いに共通する点を見つけ合わせたところ「英語を話す自分」になりたい願望の強さが浮かび上がってきた。そんな「自己へのこだわり」が生まれたきっかけは人それぞれだったが「ALTと話したとき通じなかったくやしさ」「洋画へのあこがれ」「ビートルズ(お父さんの影響だって。がああん)」など、やはりネイティヴスピーカーたちに興味関心が向けられるようだ。そこで皆に「英語はだれと、あるいはどんな人たちと話すんだろう」と問いかける。最初はきょとんとしているが、対話を重ねるうちにこちらの意図も読みとってくれる。
「日本人以外の人と話すのであって、必ずしも英語母語話者とは限らない」というのが彼らの結論だったので、次の活動Who is more Japanese?に入る。英語を話すとき、話す自分が「日本代表」になっている経験は、今の一年生にはない。外国をひとりで旅した経験の持ち主はまだいないのだ。しかし、数少ない英語会話体験を振り返ると、自分が日本代表でなくても、相手を「相手国の代表」と見なして話しをした体験が出てきた。それが悪いとは言わないが、それで終わらないようにしようと励まし合って今日はおしまい。なんだか学部の一年生にも大学院生にも同じ話をしている気がしてきた。。。ま、いいや。今期は特別なので、大事だと思うことは全員にぶつけるのだ。
オーラルコミュニケーション シガニーウィーヴァー、not.
シガニーウィーヴァーのインタビューを教壇で全員に演じてもらった。まあエイリアンさえ見たことのない学生さんがほとんどだから、シガニーウィーヴァー本人を知らないわけで演じろと言われても困っただろう。しかし、それなりに自分自身ではないだれかを演じることには皆成功していた。後半は、コミュニケーションスタイルの差異がもたらす誤解やコンフリクトについてのモデル討論とエッセイを読み、この問題について話あう(次回)ための準備をした。モデル討論を何度か読み、自分が共感する登場人物を選び演じる。今日できたのはここまでだった。
英語科教育特論 附属中学校 近藤博之先生の特別講義(1)
6月に行われた附属中学の研究大会でのご自身の公開授業ビデオを見せて、授業の作り方等の解説と討論をしてもらう2会連続講義の今日は一回目だった。私は授業には参加していないのでこれ以上のコメントはできない。自分の授業を解説しながら実習生に授業づくりのいろはを教えるとは、自分の授業実践の経験や能力に誇りを持てない私にはとてもできない授業だ(だから頼んだんだけど)。学生の反応が楽しみ。
授業日記、学会参加よれよれ日記ほか 6月26日
英語科授業研究 皆さんあっての授業です
今日はインタビューテクストの分析に多くの時間が費やされた。中学校チームは授業者に直接インタビューできないため、グループの一員が授業者役を演じてインタビューに応え、なおかつその後その分析に加わっているので、特殊な研究状況になっている。小学校チームは、授業者本人に大学まで来てもらいインタビューがとれた。発言量が相当多く苦労しそうだ。今日は、まず分析の手順と便利なテクニック、分析のまとめ方について簡単に説明したあとは、全てグループ活動。2週間後には、分析がひとつの論考にまとまる予定である。それにしても院生の方々の仕事のはやさと協力体制づくりの出際の良さには感動する。でも分析自体は効率や手際良さを意識せずじっくりやってください。
あ、second language appropriationか
新たなコトバの学びの研究に何か呼称を、と下に書いたあと、兵庫教育大学の吉田達弘さんの「社会文化的アプローチによる英語教育研究の再検討ー「獲得」から「アプロプリエーション」へー」という論文(『言語表現研究』2001兵庫教育大学言語表現学会に掲載)に出くわした。このappropriationという用語はWertsch、さらにさかのぼればBakhtinから出たものだが、吉田さんはこれを「他者の行為を、自己の行為、意図の中に引き込む」ことと説明している。becomingというコトバも「なる」感じ、自分が変わる感じが出て良いが、appropriationのほうが変化の性質が表現されているのでベター。語呂もね。
四国英語教育学会香川研究大会に参加して
8件の発表と、特別講演があった。研究発表8件のうち5件は鳴門教育大学の院生および教官によるもので、なんだか香川にいるような気がしなかった。鳴門関係の発表にはここではコメントしないことにして、他の発表中特に面白かったものひとつについて書く。香川大学教育学部附属坂出中学の中野光夫氏の、英語の時間にスペイン語を教えるプログラム開発(Dual Language Teaching Method)のアクションリサーチが新鮮で面白かった。中野氏のトークは小気味よく面白く、聞き入ってしまう。スペイン語と英語の言語的差異に関する批判的な質問も出たが、なにより実践のおもしろさ、省察から生まれる次のアクションの的確(+意外)さに、引き込まれた。スペイン語を学ぶために英語を使い、結果英語も学ぶという分析は、裏付けの取り方が難しいが興味深い。「スペイン語ではなく英語で話しても良いと先生が言ったので「ほっとした」」という生徒のコメントが紹介されていた。その手があったか!である。資料が26頁にも及び、ここでその内容を紹介する筆力と時間がないので割愛せざるを得ない。今後、このプログラムに沿った生徒の評価方法を開発研究されるようで、非常に楽しみだ。「英語の授業でスペイン語教えるなんてあまり考えないし、考えても実行しないぜ、ふつ〜」などと考えていた私の「ふつ〜」さを恥じたい。
参加者が少ない学会は、痛切に、痛切に、寂しい。なんとかせねば、よ。
6月は雨 今週も「気がついたら週末」だった。 6月22日
教育課題探求 6月22日
ひさびさのreading assignment。 Pavlenko, A. & J. Lantolf (2000) Second language learning as participation and the (re)construction of selves.
Acquisition metaphor と Participation metaphorのうち、これまで検討してきたコミュニケーションや文化理解の学習活動を捉える視点として、どちらが有用かという(答えみえみえの)トークをした。英語教育を語る際に「言語」の分析定義から始まるケースと違い、コミュニケーションと文化理解などの「言語を使うことで顕れる人の営み」を分析定義するところから始まる英語教育目的論では、つまるところ従前のacquisition metaphorの不十分さが明らかになる。97年の夏に福井で全国英語教育学会で柳瀬さん、吉田さんと共同で提案した際に、新たな言語習得研究のあり方を「Second language acquisition」と形容することに違和感を感じ、「異なる呼称が必要かもしれない」と述べた記憶があるが、ちっ!あのとき何か命名しておきゃよかった。この論文にあったsecond language becomingよりはましなフレーズ考えたのに。。
授業の中身については来週書く。たぶん。
ゼミ 6月22日
ここで登場するM1のゼミ以外に、M2と学部4年のゼミも別に行っているのだが、1対1なので、何かプライベートなトークを公表するみたいな気恥ずかしさがあって、日記には書かないことにしている。
今日のM1ゼミは、西澤さんのAlan Davis論文レビューだった。M1のお二人とも批判が手厳しい。なんで私が著者の立場を弁明しているんだろう?しなくていいのに「いや、著者が議論の前提を明確にしていないのは確かだけれど、これはWiddowsonの退官論文集ってことでジャーナル論文というよりエッセイっぽいし、Widdowsonを読み手として意識して書いたかもしれないからじゃないですか?」などと著者弁護している。なんだか頼もしい院生さんたちである。指導教官いらず、だ。
内容について書かないといけない。native speaker論が話題の中心だったが、もう今日は一週間分の疲労がピイクなので、またいつか書き足す。
小中学校実践基礎演習 6月20日
今回から夏休みまでを担当する。この授業は学部1年生の大学生活支援の意味が濃い授業である。いわゆるオリエンテーションセミナー。今回は自己紹介と自分の英語学習歴を振り返る活動をした。教室環境で自分について語り、自分を他者に対して開く経験をしてもらうことで、「大学の授業では教室でどんどん発言するものだ」と思いこんでもらおうという意図での自己紹介だった。英語学習歴の振りかえりは私の定番メニューで、これまでの人生で何にこだわってきたのか、何がきっかけで自分のこだわりややる気をはぐくんできたのかを他者に語ることで、英語学習への動機づけとしてもらおうと意図された活動である。過去の自分の歴史のポジティヴな部分を拾い集めて自分への元気づけにすることは生きていく上で大事だ(だから私はこんなにのんきなのだ)。話がずれるけれど、新世紀に向かってグローバルな協調を目指すのなら、ネガティヴな過去の歴史(戦争など)を現在の自分の世界観に引き込むようなことは、あまり得策とは言えない。映画「パールハーバー」私は絶対見ない。在ハワイ中はアリゾナ記念館には何度もいったし、学生時代は広島原爆資料館にも行った。シンガポールでも日本軍の残虐非道を表したジオラマ展示も見た。そこで経験したことが自分の世界観の一部になっているし、無益だとは思わない。しかし、それは多くの経験のほんの一部だからこそ良いのだと思う。過去のネガティヴな歴史ばかりを背負いたくないというのが実感だし、2000年生まれのむすこには、もう少し元気の出る楽しい歴史を背負わせてやりたいと思う。(元気の出る楽しい歴史とは「つくる会」の教科書を暗に言及しているのではなく、むすこ個人の異文化体験を楽しいものにして「元気の出る個人史」を背負わせたいという意味。私は「つくる会」には反対である。)ああ、脱線した。
英語科教育特論 6月20日
模擬授業二回目。We are the world.を使った授業で面白かった。後の反省会でZero Landmineの話をはじめて聞いた。来年度からの新英語教科書には載っていないだろう。教科書は時代に即応するメディアにはなれない。今年いっぱいまでの教科書New Horizonを見ると、ブラジルのアイルトンセナ(1994年F1レース中の事故で死亡)の写真が残っている。この写真を見るたびにタンブレロを直進しコンクリートに激突したウイリアムスFW15が目に浮かぶ。 ああ、また脱線した。
模擬授業については後日あらためて。
オーラルコミュニケーション 6月20日
自分の異文化適応適性診断をスピーチした(前回の宿題)。あまり異文化体験の豊富でない学生さんにとっては、それだけで否定的な自己評価になりがちなため、あまり良い課題設定ではなかったかもしれない。反省。でもなぜか妙に盛り上がるのが、へん。
今日からディスカッション。いきなりは厳しいので、疑似体験を意図したディスカッションを演じる活動をした。実は今回はディスカッションでさえなく、ある女優のインタビューを演じた。あれこれ注文を付けながら繰り返すうち、少しずつ演じている感じが出てきて面白い。スクリプトが離せない状態(英語がけっこう難しい)だったので、「片手でスクリプトを持って、逆の手で演技をしてください」と指示をだした。自分でもやってみたら面白く、内心けらけら笑っていた(普段無意識にやっていることを意識してやると恥ずかしいのだ)。
授業日記 6月19日
英語科授業研究 6月19日
中学校チームはインタビューを取りました。小学校チームは、その打ち合わせをしました、まる。来週までに書き起こして分析の下準備を整えておいてください。面白いのはこれからです。小学校チームも21日の夕方、授業者を迎えてインタビューを行いました。小学校で英語を教えはじめて数ヶ月の経験を持つ授業者の語りと、10年以上の経験を持つ中学校英語教師の語りの間にどんな違いがあるのか、比較する視点も持ちながら、narrativeの分析をしてみましょう。
市内の中学へ授業観察へ行って来ました。 6月18日
こちらの修了生でもある市内中学校の英語の先生の授業を観察させていただいた。中学校1年生の授業だった。よく昔から「教科書を教える」ではなく「教科書で教える」のだ、などと言うが、この授業を観ると「それも違う」と言いたくなる。教科書で教えていたらこんな良い授業はできない。生徒と何をしたいのかが明快で、しかもそれが生徒に対する押しつけになっていない授業。ゲーム形式なのにゲーム(お遊びの意味での)じゃない活動や、フラッシュカードを使った単語発音練習が授業の都合(新出単語の確認って、次の活動を進めるための先生の儀式になっていませんか)になっていない点など、技術的な仕掛けと4月から根付かせてきた明に暗にの決めごとなどが、授業から感じられる。後者については授業者自身に語ってもらう必要があるが、これについては、夏の全国英語教育学会で発表したいと考えている(ので、名前を伏せた)。
スピーキングテスト 6月16日
徳島県の中学校教員の方々の研究会に参加させてもらっているのだが、秋の全英連大会(高知)での発表(だけでなく統一大会など多くの活動を抱えている)に向けて、スピーキングテストのあり方を考え、実践している。今回は、数人の先生の実践ビデオを見ながら検討したのだが、これが面白かった。評価者と向かい合ってスピーキングをする英検方式のテストは、ほんっとテストであり、そのテストとしての信頼性を維持するために「コミュニケーション」にとても大切なことをなで切りに切り捨てている、という認識のもとに、それを改善する方策を探っている。種種の仕掛けを用意し、生徒が終わった後充実感をもち、その経験が次の動機を生むようなテスト方法(言うは易)をトライしている。実践報告初回から、目を見張るような成果を確認できた。同じような素晴らしい実践をすでに行っている先生方は他にもいらっしゃると思うので、これが最初だオリジナルだという気はないが、生徒の反省に「またやりたいと思った」「意味不明に面白くて、顔はにこにこしていたと思う」「テストみたいじゃない」「オーディションみたい」などの感想が書き込まれるようなテスト、私も真似して(できるかなあ?)やってみたいと思う。「中身を話せ、もどかしい」と言われそうだが、これも共同研究なので全英連高知大会で公表するまでは全部は書けない。
課題探求 学習論のはじめに 6月15日
今回は、グループ研究の時間を取るために学習論に費やす時間が十分でなかった。Language learning is like ...と言語学習を何かにたとえてその本質を語ってもらおうとする試みは、半ば成功のような、しかし本筋からは外れていたような結果に終わった。「言語学習は水前寺清子のようなものである、そのこころは3歩進んで2歩下がる」のような教訓めいた例えではなく、学習の定義に関わるような例えをして欲しかったのだが、十分に徹底しなかったようだ。しかし、それぞれの皆さんの英語学習経験に基づく教育観、学習観を「イメージ」を使って交換できたことは有意義であったと思う。分析的に学習を定義しようとすると、網羅的になったりしそうだが、例えを使うと、その本質だけに言及せんとする意識がわくと思い、この方法を使った(よく使われる授業手法)。私は英語学習をカラオケ、演劇などに例えたが、他の参加者の皆さんの例えの方が意外性があって面白かった。「リンゴの皮むき(最初はたどたどしく断片的なことばが徐々に長い文になっていく)」「料理(これというゴールがない。食べてみないとわからず、食べてみても評価は定まらない)」など生活に根ざした感のあるものや「自転車乗り」「体育」など類似性を感じる(学習)活動になぞらえたもの、「ひながふ化して巣立ちを迎えるまで」と愛情こもったものなどなど。自身が授業者(教育者)の立場にたった比喩もあれば、学習者の立場に立ったものもあり様々だった。学習論の3回シリーズが終わった後、このイメージは変わるのだろうか。
授業日記 6月13日
英語科教育特論 模擬授業
なかなか意欲的な授業だった。あがちゃったり、生徒の文脈で授業展開を考える配慮がもう少し足りなかったりで、授業者の指導技術としてはまだまだだが、それは当たり前である。しかし、生徒にこんな事を学ばせたいという教師の意欲が明確にあらわれていて、型にはまった流れるような(それゆえあまり残るものが少ない)手慣れた授業とは全然異なる魅力があった。教育実習でも、その意欲を存分に発揮する授業を展開して欲しい。
修論中間発表会 (オーラルコミュニケーションは修士論文中間発表会と重なり休講)
お疲れさまでした。
ゆっくりと問題点を吟味するには十分な時間とは言えず残念。とはいえ、15分の発表で、研究の進度と深度は十分よく伝わってくるもので。それぞれの発表者の問題意識がよく伝わってきて、いろいろと考えさせられることが多かった。文学の発表がないというのは寂しい。
授業日記 6月12日
授業研究 分析しよう
インタビューを「読み込む」→「分析する」→「解釈する」過程の体験学習(?)。音読もランダム読みもピンとこなかったかもしれないが、語り手を演じることが解釈の一手段には違いなく、特に相手の「情況」を想像する手だてとしては有効だと思うので、何度かトライして欲しい。テクスト中の繰り返し、比喩、引用、その他引っかかるコトバを取り上げつつ、テクストの特徴を見つけていく作業を通じて、テクストの解釈を即決せずに時間をかけて分析することの意義を感じていただきたい。次回はインタビュー本番!
っぜみ 6月11日
ゼミと言ってもM1とのではなく、M2の修論指導と博士課程の学生さんとの非公式な対話の時間(今日の午後は全てこれ)についての日記。M2の山崎さんの修論は「文法指導とZPD」というえげつない(私が薦めたものであり、山崎さんのセンスがえげつない、という意味ではない)組み合わせのタイトルだったが、やっぱり露骨で品性に欠けるから変えようということになり、今回からSociocultural Approach to Learning Grammarに暫定的に変更した。彼は文法指導が好きで、私は社会文化的アプローチが好きだという品性の無い命名法は相変わらずなのだが、タイトルを変えたおかげで、ZPDから自由になり、研究テーマをうまく修正できた。英語教育研究の分野で、consciousness raising あるいはnoticingと呼ばれていた文法項目の「意識化」に関する研究を、社会文化的視点から再検討しようという論文に生まれ変わった(はず)。pre-test post-testでtreatmentの効果を量ろうという単純な研究手法とはひと味違ったものになるだろう(たぶん)。
博士課程の指導を許されていない私には、話し相手になるしかできないが、対話者がいるって貴重だ。書く行為と読む行為の関係がテーマらしい。人様の論文内容を、しかも博士論文の中身を、こんな誰でもすぐ読めるメディアに載せることはやっちゃいけないので差し控えるが、ひとこと感想を述べる。現在まで英語教育の研究において、読む、書く、という行為がどのように捉えられ、それを前提にどんな研究の構築がなされてきたかを考えると、「意味が伝わる」ということの意味を不問にしたまま研究を積み重ねているのではないかという疑念がわく。code-decodeモデル的な「キャッチボール」メタファや、読みの理解には上下線状の過程があるという「トップダウン・ボトムアップ」メタファが、何となくまだ生きている気がする。英語教育研究界の先人が「文章理解とは何か」をせめて10〜20年耐えうる程度に議論してくれていたら、博士論文でそんなことから説き起こす必要もなかったろうに。
私が最近の動向を把握していないだけの話か。しかし「心的表象を図的に表した状況モデル」などという認知研究のお話にどうも真剣にコミットできないのも確かで、「テキストのより深い理解のためには学習者が適切な状況モデルを構築していることが大切である」と『英語リーディングの認知メカニズム』(くろしお出版)に書いてあるのだが、状況モデルを構築すること自体が理解じゃなかったのかな?とか、状況モデルで用いられる「空間」上での関係で意味を捉える方略は、人間確かに使うけれど、それはごく一部の限られた場合(brain stormingの時とか家系図とか)じゃないのかな?などと悩んでしまう。We live by metaphors. ってこととは違うのかなあ?
授業日記の功罪 6月8日
なんだか授業日記をつけると、書かなかったことは存在しなかったかのように、あるいは「本当に(そんなものないけど)」書いたような授業だったように思えてしまう。何も書かなければ何も存在しなかったことになるから書かないよりましだ、とは自信を持って言えない。授業参加者が全員授業日記をつけたら良いかもしれないが、そんなの全部読んでいるうちに次の授業が始まってしまう。授業参加者には、書かれた内容を判断する各自の授業体験があるし、授業に出ていない人はフィクションだと思って読んでもらえば良いのだけれど、私自身が読み返すときが問題で、自分の授業の「出来事」が記憶の中で硬化してゆくような気がする。 でも他に策がないので、書き続けることにする。
課題探求 コミュニケーションを学ぶことができる教室の条件とは
今日の授業の前半はグループ課題研究の打ち合わせに費やされた。各グループで「文化」「コミュニケーション」「学習」のうちから一つテーマを決めて、それに基づいて教科書分析を行うのが課題だ。次回からは授業の一部をグループ研究にあてることになる(講義者が楽したいから?)。この課題は個人レポート(上記のトピック一つについて持論を展開する)と抱き合わせの企画である。学期の最後にレポートをひとまとめにして印刷したいと思う。
コミュニケーション論のまとめ。「キャッチボール観」的コミュニケーションにおいては、誤解は聞き手あるいは話し手いずれかの間違いによって起こることになるが、誤解は間違いじゃない。「意味づけ論」的コミュニケーションでは、つじつま合わせの過程で感じられる「ズレ」が後に誤解と判断されると説明されるし、そうならない限り互いの「情況」を共有している幻想を維持できる(=つまり理解し合っている)。つまり理解と誤解は、相互の情況がダイナミックに再構成され合う過程で起こる「出来事」でしかないわけである。
コミュニケーションを教育目標に標榜する限り、英語の授業はこのような情況の違いを意識し合う体験がどうしても必要だ。つまり「情況の共有感を維持するつじつま合わせ」を体験する共同体に教室を育てていかねばならない。そして生徒たちはその共同体の中で独自の情況と「my English」を携える自立した存在として、my Englishと身体を駆使し、自分のアイデンティティを築いていく。「コミュニケーションを学ぶ」教室は、そのような条件を満たす場にならねばならない。よって、教師の仕事は、English Speaking Communityを作り生徒を参加させることで、彼らが新たなアイデンティティを築くための支援をすることである。
どんな教室が良いか、という問いに対しては(1)つじつま合わせ、情況の共有を実感しあう教室(2)身体を使うことのできる教室(3)緩やかな目的を共有する教室(4)外に開かれた教室、という条件を上げたが、3と4には説明をさらに加える必要がありそう。そして何よりの問題は、このような教室を作り出すために、まずは何からはじめたら良いかという問題だが、これに対するひとつの答えは「授業研究」で提案できると思う。あるいは、こういう視点を持って「達人セミナー」なんかに参加すると、中には良いヒントを提供してくれるスピーカーがいるかもしれない。
金曜日の夕方の授業だけに、この季節疲労感がたまって堪える(そう思いません?)。6月はまだ始まったばかりである。。。一度くらいは大学のビーチハウスで授業したい(そんな施設はない。念のため)。
授業日記ほか 6月6日
オーラルコミュニケーション(6月6日)
スピーチ最終回。Koji SuzukiかSuzuki Kojiか、自分の意見をまとめて話す。5人が発表し、残り5人がそれを聞いて、どちらがconvincingかを決めた。発表者は5人中4人までもがKoji Suzuki派だったが、聞き手の5人は、3対2でKoji Suzuki派、つまり、一人分Suzuki Koji派が挽回した?結果になった。
話す内容に意識を向けすぎると英語の発音がめろめろになる傾向があったので、リズムとスピードを意識するエクササイズを真ん中に挟んで、後半はマルチカルチュラルな人の条件について話し合った。まとめのスピーチは次回の最初に持ち越し(宿題)となった。
英語科教育特論(6月6日)
次回から模擬授業。そのための準備と段取り。特筆事項はないが、「意欲的」な授業になりそう。
授業研究は附属中学の研究会のため休講(6月5日)
附属中学校で研究大会が行われ、公開授業2つと北尾倫彦氏の講演「評価をテコにした学校改革」を聴いた。英語の公開授業を二つ観察したが、それぞれについて研究会(合評会っていうの?)がなく、やりっ放し、見っぱなしだった。絶句。なんのための、だれのための公開授業なのさ、これは。
北尾氏の講演は語りが巧みで、2時間弱の講演だったが、最後までちゃんと聴いた。同意できる面も多かったが、内容についてはレポートする気力と体力がないので省略。
課題探求 理解とは情況の共有幻想、誤解とは認識された「ずれ」につけたラベル(6月1日)
文化理解とはアイデンティティの関係性を自覚し交流(コミュニケーション)することであり、その意味での「コミュニケーション」ができることとは、communicative competenceの議論で言われてきたこととは大きく違う、という前回までの議論を受けて、今回は深谷・田中のコトバの意味づけ論を中心に、コミュニケーション観の検討を続けた。
文法能力を基礎とした発話と理解のモデルには、コミュニケーションのようなダイナミックな行為を捉えきれない。文法を知ることの学習上の意義とは別の次元で、文法と発話理解能力を結びつけることの限界を「文法は結果と考えよう」という表現に込めて前回の授業を終えた。今回もまた、それをしつこく繰り返し例証した。そのあとに、田中・深谷のコミュニケーションの特徴づけ、特に、コトバの意味を「記憶の関連配置」理解の文脈を「状況と情況」コトバのやりとりを「つじつま合わせ」と捉える彼らの概念を使って説明した。codeモデルに見られるコトバの「キャッチボール」メタファーをそのまま教室に持ち込んだような定型会話ドリルでは、対話者との間で情況の共有感を実感することも、辻褄の合わない事態も体験することはできない点を指摘し、パターン化されたドリル会話のような「リハーサル」だけで授業を終えるのではなく、必ず「本番」つまり、コトバの意味づけ体験を教室で保証してやることがコミュニケーション学習支援ではないだろうか、という結論で授業を終えた。次回は、コミュニケーション論のまとめとして、授業で何をやらねばならないかを考える。
授業日記 5月30日 課題探求、授業研究、英語科教育特論、オーラルコミュニケーション
オーラルコミュニケーション(30日)留学生に聞いた話
留学生(ブラジルとメキシコ)と話して聞いた、日本人のイメージについて学生さんからの報告があった。日本人はシャイで謙虚だが、男性は外国人の女性に興味を示さない、あるいは恐れている、と感じるそうだ。がんばれ男の子!
ステレオタイプの自覚はしたので、今回は自分のアイデンティティに関わるカテゴリー群を列挙してもらい、相互比較した。今回は介護実習期間のため、出席者が5人だったこともあるが、参加者同士の個人的な理解が深まったように思う。列挙した中から「私と同じだ!」or「対照的だ」と感じた項目を言い合った。たくさんリストアップした人に対して「自分のことがよくわかってるんだね」と隣の学生が言っていたのが印象的だった。
最後は、アイデンティティつながりの話題で、英語を話す際に、given name-surnameの順か「姓ー名」の順かを巡った議論を紹介した。自分らしく感じる名前の言い方はどれか、それは場合相手を問わず常にそうか、いずれにせよ、それが自然と感じる理由を述べよ、という課題について考えてもらい、次回の宿題とした。ちなみに来年から使われる英語教科書の9割は「姓ー名」表記になる、とその記事には書いてあった。ひええ。
英語科教育特論(30日)授業プランづくり
ほとんどグループ作業で終わってしまった。少しだけ、補助教材の話をした。来週までには9者9様の授業プランができあがるはずである。私がしゃべらなくても学びあいが(ある程度)成立する。教師孝行な学生さんたちじゃ。
英語科授業研究(29日)インタビューをして・されてみよう
授業に先立って、28日に土成小学校での英語の授業に参加した(11名中10名が参加)感想を少し話した。4年生の子供たちと、自然に混じることが出来る人、小学生に受け入れられそうなキャラに自分を変えて参加する人、児童と話すきっかけを見いだせず苦労したりたたずんだりする人、様々だったが、皆さん、単なる授業観察よりも得るところが多かったように感じた。
今回はインタビューの練習をした。ふたつのインタビュー課題で、聞き手と語り手、報告者の立場を体験してもらい、インタビューや報告をする際の注意点、語り手として話した実感をまとめた。課題については「逆さま。。」の後ろの講義ノートをご覧いただくとして、ここで、2、3点ポイントを上げておきたい。
語り手の実感から:思ったこと、考えたことを言語化して相手に伝えている、というよりも、相手に応じて話すことによって自分の考えが創られていくように感じた、とまとめられようか。自身の理解や解釈を言語化するのではなく、言語化して外化することで、だんだんと考え、意見、理解になってゆく感じを「自分の理解を外化するのではなく、外化することが自分の理解になるのだ」と表現し「コトバの意味は間に創出される」とまとめた。そう考えた方が、後の研究のjustificationの際にも楽だし。
聞き手の実感から:相手の話を一所懸命「理解」しようとするあまり、相手のコトバを自分の理解の枠に引き込もうとしてしまう傾向を自覚してもらった。「つまり、こういうこと?」という言い方に典型的に顕れる。インタビューする人の役割は、語り手の語りを充実させることなのである。そのためには、必ずしも相手の発言を、その場で「理解」さらには「解釈」する必要はない。辻褄の合う程度に話を合わせることができたらいい場合だってあるのだ。語り手の発言の理解や解釈は、後で研究者たちが集まってすることなのだから、インタビュー中には、躍起になって「理解・解釈」せず、感心しながら聞いていればいいのである。
報告者の実感から:二人一組でインタビューを行った後、他のクラスメート全員に対して、語り手の発言を報告する経験をしてもらったが、その報告の語りの難しさ、おもしろさを楽しめたのではないかと思う。語り手のコトバと自分のコトバを駆使して、インタビュー内容を知らない人に伝える時の自分のスタンスの置き方、コトバの混ざり具合は人様々だし、インタビューノートの取り方(逐語的に発言を囲うとするのか、キーワードを並べて図的にノートするのか)によって相当報告の言語が変わってくる。今回の報告者の発言にみられた繰り返し表現(バランス)や比喩表現(串)に注目すると、これがまた面白いんだよね(と、どう面白いのか説明する気力がなくなってる)。
インタビューで取ることが出来るテクストの意義づけについては参加者の理解を得ることが出来たのではないかと思うのだが、まだ十分でなければ、お知らせください。
課題探求(25日)コミュニケーション能力、って一体?
リーディング:Canale (1983)、今井(2000)
別のアプローチとしては、前回の「文化間理解のあり方」での話題からストレートに、コミュニケーションにおいて私たちは、一体何に身を投じているのか、という議論に進展させてゆく案もあったのだが、先を急がず、まずは予定通り、英語教育で考えられているコミュニケーション能力(comunicative competence)という概念の再検討から始めた。
Canale (1983)は火曜日に渡して金曜日までに読んでくる羽目になったので、実際に27頁全部読みこなしてきたという人はいなかった。大学院生(M1)は忙しいのだ。
というわけで、Communicative competenceという概念に関わる議論を歴史的に解説したうえで、Canale (1983)の議論の内容をミニ講義的に紹介した。質問を求めたら、grammatical competenceの話から、grammarの役割の話になって、Krashenの言うようなacquisition環境が日本にはないから、コミュニケーション能力はつかないのではないかという発言が出た。知らない人のためにKrashenの使う概念acquisition/learning distinction やinput hypothesisの説明をすることになってしまった。話を元にもどしつつ、competence=skill+knowledgeとすることが、理論説明の負荷をいかに増やすかという指摘をして、コミュニケーションをもっと違う側面から捉えてみようよ、という提案をした。「文法は結果」と考えることから出発して、コミュニケーションを解釈してみよう、という提案が受け入れられるか拒絶されるかは、次回の授業の出来に左右されるのか。
授業日記 5月23日 授業研究と英語科教育特論とオーラルコミュニケーション
英語科授業研究(22日)
中学チームと小学校チームに分かれて、授業テクストの読み込み、違和感探し、ビデオ編集(インタビューのキュー用)を行った。チームワークの作り方がうまい、仕事がはやい、感動。小学校チームは授業中の発言の書き起こしを省略したため分析がやりにくそうだった。なかなかビデオを見るだけでは教師や生徒の発言に自分の気持ちを重ねていくのは難しいのだろう。インタビューでの質問も考えてもらっているが、研究者の考えを押しつけず、授業者の授業に対する省察を深め、授業以外の教師の生き様、歴史、文化にまで話が発展するような万能質問というのは、なかなかない。
次回はインタビュワー・イーの練習を行う。
英語科教育特論(23日)ゴールから授業計画を立てる
「ウオームアップ、復習、導入、読解、練習、まとめ」といった授業展開の流れを前提に授業計画を立てると、どうも「魂入れず」というか、スムーズだけれどパンチがない、残るものがない授業になりがちではないか、という反省のもと、ユニット最大の重要事項は何か>生徒にどんなことを実現させたいか>そのためにどんな準備が必要か、という順序で授業計画を練ってもらった。3人チームは、各自が一学年を責任担当しているが、今回は、他チームの同学年担当者との情報交換・議論も行った。どうもニューホライズンの教科書はStarting Outとその後のレッスンの内容が乖離しすぎだ、という話が出た。(実習前の学部生の分析です)。ネッシーからロックの歴史、カルガモ親子・ウズラの卵・ダチョウの卵からハンバーガーショップ、というつながりの無さに絶句する。Starting Outは文法項目の提示がポイントなのだとしても、ひどい。ネッシーの代わりにWe are the worldのアーチストたちの集合写真を使ってもThis is a famous picture taken in 1980 (1934じゃなく)くらい導入できるじゃないかとの意見が出た。そだね。
彼らには、がんばっていただきたい。
オーラルコミュニケーション(23日) スピーチ
「どうやって人の意見に対してコメントしたり質問したりしたら良いのかわからない」との感想があった。普段はあんなに楽しそうに途切れなく友人と会話しているのに、、。対話と会話の違いってことかな。ステレオタイプを自覚するエクササイズもした。アメリカ人のイメージを列挙したら、ほぼすべて好意的で優越?なものばかりだった。個人的にアメリカ人を何人知っているか聞いたら、多くて3人だった。テレビ、映画、雑誌、そして英語の授業の影響かなあ。ブラジルは?サンバ。韓国は?キムチ、だった。「国」にこだわるわけじゃないが、来週の宿題は留学生とステレオタイプについて話してくること、にした。
授業日記 5月21日 っぜみ
LantolfのLet All the Flowers Bloomを読んだ。ムツかしくってさっぱりわからなかった、というゼミ生の皆さんに「ポイントは、要するに、おおざっぱに言えば、簡単に言えば」などと私的日常言語レベルでいいかげんに語ってしまったり、自分でも理解が怪しいところは、論文の棒読みになってしまったり、最近の首相の国会答弁じゃないんだから、と深く深く反省した。この論文に見られるメタファーを切り口にしたチョムスキー批判は、面白くなくはないが、批判になっていないと思う。Lantolfは批判対象をチョムスキーまで拡げずSLAに限定した方が賢明だろう。
モダン・ポストモダンという切り分けでSLA研究を対立的に捉えることよりも、研究対象と方法論の意義づけをきっちり行い、研究の価値表明をすることの方が重要な気がする。Lantolfは既存の研究を「モダン」の一言で片づける気はないと断っているが、結局多かれ少なかれ一緒だと言わんばかりに私には思える。普遍的客観的事実とその理論的説明を旨とする「モダン」研究者にとっては、研究の価値など表明する必要はないのかもしれない。何のための研究かという問題設定自体が「ポストモダン」だ、とも言える。しかし対立的に捉えると、相互依存的に両者を定義してしまうので、そうじゃなく、それぞれ自立的な定義(意義づけ)をすることが大事じゃないかと思う。少なくとも、私の理解レベルはまだその段階だ。
自分の研究の視座が、マイノリティに属するものだという自覚があり、論文発表のたびに研究結果の意義づけとともに、研究方法の意義づけも付け加えてしまう。けっこう面倒くさい。
授業日記 5月18日
英語科課題探求 偏見とステレオタイプとコミュニケーション
(書きそこねた〜。記憶が薄い〜。)
授業日記 5月15日 授業のテクスト化
英語科授業研究
今日は、グループ活動とディスカッションが、その大半を占めた。それはそれでいいのだけれど、研究計画を進めねばならないのに、そちらの話がきちんとできなかったのが反省点。90分って長いようで短い。
最初に、授業分析の対象を、授業中の発言を書き取ったテクストに限定することのジャスティフィケーションをした。以下の引用は、授業の配付資料の一部。
テクスト化することの意義視覚情報、音声的情報が欠落することによるデメリットとして、授業の「正確な」再構成ができなくなることと考えるかもしれないが、ビデオの音声映像は、教室で起こっている出来事の一部のみを切り取って伝えるに過ぎないし、ビデオ撮影者の視点には近いが、教室に現実にいる生徒や教師の誰の視点でもない。そう考えると、ビデオの情報量によって授業の再構成が可能になるのではなく、研究者がテクスト化された言語情報から、自身の知識と想像力によって研究者独自の授業を再構成することが大切だと考えた方がよい。その再構成された授業を公共化し、他者のそれとを重ね合わせる中で、間主観的授業理解を目指す。
と、書いたのだが、どうだろうか。授業研究は授業者のためにやるんじゃなく研究者と読者(あるいは聴衆)のためにやるのであり、その方法は皆の授業の見方を共有することだ、といういわば単純なことを回りくどく言っただけか。
ある中学校の授業をテクスト化したものを、各グループで再現読みし、その印象を語り合ってもらった。その際、なんとなく「特徴」を感じる点、場面等を互いに述べあうことを大切にし、それらについて、価値判断、批評、解釈を急がず、できる限り「?」を「?」のままにして特徴を出し合うことに集中してもらった。「生徒に先生役をやらせるのは意味がない」という評価をスタートにした討論ではなく、「生徒に先生役をやらせることに違和感を感じるが、どうしてこういうことするんだろう」という、主観的、直観的な疑問からスタートし、授業者の意図に自分の理解を沿わせようとすることから討論を始めることが大切なのではないか。たとえて言うならば、授業者に向かい合って話すのではなく、授業者の横に立って話す感じを大事にしたいわけだ。いずれ何らかの研究者としての解釈を表明するにせよ、まだ授業見ただけで結論を出すのは早すぎるし、そのような結論には説得力がない。
「?」を感じるエゴはエゴとしてその前提を認め、「?」を「?」のままに他者と共有すること、「?」を多面的に(複数の人間が多種のデータからも)見ることを通じて得られるものの価値を今後具体的に語っていくつもりである。
授業日記 5月11日 授業で言えなかったこと
授業を受けた人からは「そんなこと授業で言ってないぜ」と指摘されそう。授業の補足の意味もあるとお考えください。今日は、英語科課題探求3回目 文化とアイデンティティの関係をどう捉えるのかという話。
今回の課題:異文化教育におけるアイデンティティ
リーディング:佐藤郡衛『国際化と教育 日本の異文化教育を考える』第9章 放送大学教育振興会 1999
文化共同体を以下のように定義する「観察された事象が現象として有する秩序なり規則的なパターンを、心の中の観念的な秩序として共有できている人たちの集まり」。そして、人を「複数の文化共同体に属して行為し思考する者」と考える。
佐藤(1999)の言う、アイデンティティを流動的、環境的、多層的に捉える「関係性としてのアイデンティティ」とは、人が文化共同体を複数持ち得た結果、多層的に自らの属する共同体が重なり合い、自分自身が、他者とは違う自分として区別され、自分らしい独自さを備えることを指す。
人の成長は、このような意味でのアイデンティティをenrichしてゆくことであり、英語を学ぶ目的も、このような関係性で言う意味のアイデンティティを、英語も用いて育成することではないか、そういう議論をした。自分自身のアイデンティティを関係性の中で柔軟に捉え、そういう自分を引き受ける(受け入れる)ことは、すなわち裏を返せば、他者に対する目も柔軟になることである。これが異文化理解教育の目標であり、日本語教育(国語教育のこと)におけるコミュニケーション指導においてはあまり強く意識されないが、英語教育では、頻繁に、しかもかなり強烈に意識される問題であろう。
ま、ところが、けっこういろいろあった。アイデンティティとは、そもそもその定義において、固定的な性質のものであって、流動的な性質は、そのコトバの定義に反するのではないか、という指摘。固定ー流動と二極的に問題を考えようとすると、どうも違いが明確にならない。少なくとも私にはうまく整理がつかなかった。あまりに流動的にアイデンティティを考えると精神分裂してしまうんじゃないか、という意見もあった。これについても授業進行に気を取られがちな私は、発言者と互いに府に落ち合うことがないまま議論を流してしまった。自分の主張したいことだけ議論できて、異論に対応できないという、悲しい浅薄さを自覚した、が、ま、今回が初めてじゃないので、落ち込んではいない。
共同プロジェクトの話
この授業ではグループプロジェクトとして「教科書を、文化、学習、コミュニケーションの視点から批判的に分析する」課題をこなしてもらうことになっているが、具体的なイメージを膨らませてもらうために、例のNew Horizon 3 Unit5のネッシー写真を見てもらった。学部生とは異なる視点があり、現職の方は教室が見えている(当たり前か)、「コトバを使う」ことを前提に英語を扱っているなあと感じた。いずれにせよ、このネッシー写真の英語文は不自然じゃないか、という結論だったのだから、学部生の感性には感心させられる。
次回へむけて
次回への橋渡し的意味で「Who is more Japanese?」という、ある大学一般英語用テクストの一部を見てもらい、エクササイズをしてもらった。「日本人らしさ」をどこに感じるのかを自覚するテストのようなエクササイズだが、これまでの議論で(あるいはそれを待つまでもなく)見切っちゃっている方がほとんどだったが、それでも、日本人らしさの要因として、言語(日本語が話せる・書ける)、親が日本人、パスポート、日本的価値観を共有できる、などで意見が分かれたから、とてもヒューマンだ。
次回は、ステレオタイプと偏見に関するリーディングから、教室での活動について具体的に考える予定である。
北島町 5月10日 ですます調で書きます。
徳島県北島町は、国際交流活動への意識が高く、今年も中学生を使節として海外に派遣するそうです。昨年はイギリスだったそうですが、町長の「いろいろな国の人との交流を」との意図から今年はオーストリア(ラリアじゃないよ)に派遣することが提案されました。ところが町議会が反発、「中学生の英語教育のためにも英語圏に派遣すべき」らしく、結局、アメリカのサンフランシスコに派遣先を変更し、当地で4日間のホームステイをしてくるそうです。
まあ、新聞報道以外の情報がないのでつっこんだ発言は控えますが、皆さん、どう思います? 私の意見ですか?何のための英語教育か、を英語教師が日々実践しよらんといかんちゅうことですかいのう(いい加減な広島弁)。
授業日記5月9日
英語科教育特論(9日)教科書分析の視点と実践
歴史教科書の問題
教科書の分析(教材研究を目的とした分析)する際に、複数の視点、反対の視点を持って考えることの大切さを強調したかった。今、歴史教科書の文部科学省による検定の問題で、大韓民国政府から出されている、教科書の記述変更要求(の要旨)の新聞記事を読み、どうしてこのような問題が起こるのか、互いの議論のポイント(あるいはかみ合っていないとすれば、その理由)はどこにあるのかを話し合ってもらった(が、盛り上がらなかった)。大学院の授業研究でも話題にした「客観的事実の存在」と「事実の客観的記述」とは別次元であることや、書いたことの事実性よりも書かないことの意図性が問題になっているのだから、英語の教材を読むときも「なぜこの内容を取り上げているのか?」を考える時に、「取り上げられていない事」に思いを馳せて、教科書作成の意図を知ろう!と言いたかったんだけどな。。
New Horizonの教科書分析
3グループに別れ、前回の宿題(教科書を何度も音読して、浮かんできた疑問点、補いたい事などを考えてくる)を基に、ディスカッションした。話題は様々だったが、例えば、NH 3 の Unit5 「ロックの歴史」のイントロ部分で出てくるネス湖のネッシーの写真についた説明文章:
This is a famous picture taken in 1934.
What's that black thing swimming in the water?
Is it Nessie?
No, actually it's just a model.
これは、果たして先生のひとり語りなのか、先生と生徒(ひとりまたは二人)の対話なのか?という疑問がでた。私は当初、一人語りにしか読めなかったのだが、「もし一人語りだとしたら、この写真がfamousだと言っておきながら、What's that black thing ...?と生徒が写真について知らないかのように質問するのは不自然だ」また「先生の発言なら手元の写真を指してthat black thingは変で、this black thingと言わないのだろうか」との指摘を受けて、ちょっと考えこんだ。最初の指摘についてはIs it Nessie?との発言が続くことから「生徒はこの写真を見たことがあって、黒い影をネッシーだと思っているだろう」との先生の判断からくる発言だと解釈すれば、famousは(知っているでしょ?)というメッセージだろうと考えられる。またそうだとすると、What's that ...? の文は、genuineな質問ではなく、次の文 Is it Nessie?との間にはあまりポーズを置かず読んだほうがいいだろう。またblack thing につく指示語句はthis かthatかについては、教師自身の手元の写真を生徒に注目させるのならthisだが、生徒のテキストの写真を見ながら聞くならthatかな、などと考えられるので、教室でこの文章を先生がそのまま読む際には、生徒自身のテキストの写真を見せなきゃ変になる。しかし、そうなると最初の文では写真をThis で言及しているので、写真自体をthisと言及し、その中に移っている黒い影が遠景の中にあるからthatと言及するのかいな?とも考えたのだが、どうみても写真の真ん中にでかでかと写る黒い影をthatというのは、変だ。また、写真の上下に先生が発言する文章が書いてあるというのも不自然だ(生徒は先生じゃなく教科書と対話するように仕向けられているのか)などなどいろいろ考えさせられた。
ほかにも、面白い指摘がかなりあった。ネガティヴに過ぎては考えものだが、批判的な視点は大切にしたい。「ロックの歴史」で何を教えようとしているんだろう?という疑問があがったが(実は私もそう思っていた。自分は音痴で人前で歌うの大嫌いだし)、歌が社会や人との関わりをもって育ってきたことを教えたらいいのではないか、との肯定的で生産的な発言も聞かれた(私よりも心の豊かな学生さんたちで、よかった)。その日夕方、車に乗っていて流れた曲がABBAのThank you for the music.だった。確かこんな歌詞だ。 Without a song or dance what are we? So I say thank you for the music for giving it to me. う〜ん、出来過ぎの一日。今日は学生さんに教わったかなあ。
オーラルコミュニケーション1
絵本(ぐりとぐらのA Surprise Visitor)を使った活動(にあわねえ〜)と異文化コミュニケーション訓練「日本人らしさについて」(詳細後日)
GW後の憂鬱 2001年5月8日
締め切りが遠のいてゆく。社会人失格じゃ。プライオリティ無視して授業日記をつける。
英語科授業研究(8日)テーマ:授業研究で何を探すのか
客観的事実と事実の客観的記述
教科書問題は歴史教科書に限ったことではなく、英語にもやはりある。例えばNEW HORIZONのCourse 2 Unit 5 「アフリカ」などは、その最たるもので、英語教師の世界観の限界を知ることができる。「英語教師の」と一般化してはいかんと叱られるかもしれないが、日本で最も採用数の多い中学校英語教科書を編集している方々(つまり非常に優秀な英語教師)の世界観なのだから、世間一般に英語教師はたいていそうなのだ、と判断されても文句は言えない。
授業研究にも似たところはあって、いわゆる授業研究会、授業分析というと、「授業を評価する」視点が強烈になって、公開授業を観察した「指導者(大学教授だったり指導主事だったり」が「ご助言」と呼ばれる評価を下す。観た事象(授業のことです)を、我が身のそれを考える機会にはなかなかなってない。これは、授業研究に臨む人たちの心構えの問題と、授業研究会の研究手法の問題の2つに起因すると考えられる。心構えの問題とはこういうことだ。自分がある評価を下す(そして心に留め置く)ことと、それをコトバにして他者に語ること(公共化する)、とは別の行為なのだという自覚を持つことが大切であって、あたかも評価者が自身の発言が「客観的で正当な評価」であるような幻想を持ったり、聞き手もそういう前提で聞いてしまうことの恐ろしさを自覚しなければならない。研究手法の問題とは、一人の経験知に基づく評価に左右されたり、また、自分の中の「評価」を他者に語ることなく、誰にも触れさせないまま持ち帰ってしまったりするような公開授業研究会に多く見られるスタイルのことであり、これをいかに脱却するかが課題になる。これらの問題を考えるキーワードとして「間主観的理解」を挙げた。間主観的な認識を授業について持つことが、授業研究成立の条件であると考える私としては、授業研究で何を探すのかと問われれば、この間主観的理解であると応えるし、それは具体的には何だと言われれば、教育者同士、あるいは教師と生徒が共有している(あるいはされていない)学校の、教室の、授業の「文化」であると答える(今のところ)。「文化」って何と問われたら、、ああ、めんどうになってきた。配った資料に書いてあります。
文化として教授をとらえる
こんなことが今回あった。ある授業ビデオを何の説明も授業案もなく観てもらった。途中のゲーム的言語活動の場面が終わった時点で「何やっていたかわかりましたか?」と問うと、活動の目的やルールをさらりと言い当てることのできる方と、???!?の方に分かれた。???の方は外国人留学生と学校教師の経験のない方々だった。学校の英語教師たち(だけ、とは言いませんが)が共有しているものを具体的に見ることができたと思う。教師には当たり前のように透けて見える教室の決まりが、そうでない人たちには見えていない、ということはたくさんありそうだ。
次回の英語科授業研究は。。。
2つの授業研究グループをつくった。それぞれが、ある中学の授業、小学校の授業を研究対象とすることになった。さて、これからが大変じゃ。授業を逆さまに見ることから始めてみましょう。
英語LL演習(8日)
3人の大人の授業?。CALL教室を3人で使うとは、電気代の無駄か。授業の中身はひみつ?!
GW前の憂鬱 2001年4月25日
タイトルの意味は、単に、仕事の締め切りがGW前に集中するから大変じゃ、というだけの話。今日も授業日記をつける。
英語科授業研究(24日)テーマ:1)授業をぼお〜と観る法 2)自分を映す鏡
英語の授業研究のひとつのアプローチについて説明し、今後の授業でそれを自ら実践してもらうことで体験的に学ぶ下準備をした。資料は昨年用いた「授業を逆さまから見る方法」をアップデートした資料を用い、授業研究過程を説明したのだが、具体性に乏しく、今後の展開をイメージするには不十分だったのが反省点。まず、ピカソの絵を上下逆さまにして模写してもらい、いかに自分が既成概念に影響を受けているか、あるいはそこから自由になると、なんと思いがけない絵が描けるかという体験をまずしてもらった。授業を観察する際にも「評価の視点」が定まってしまい過ぎると、いかにいろんな人の授業を見ようともそこから何かを感じ取ることができなくなってしまう。できるだけ過去の評価の視点から自由になって授業を追体験することで、新たな力を自分の授業観に注ぎ込む研究方法(発話のテクスト化、その読み方、インタビューの仕方など)の提案を行った。具体例として最後に、インタビューを行う際にCueを与えることがいかに大切かを実感してもらうため、一枚の絵から短い物語を作る活動をしてもらった。「バイオリンに目を落として座るひとりの少年の絵」を持っていくのを忘れてしまったのは大失敗だったが、いくらかcueの大切さを実感あるいは想像してもらえたのではないかと思う。次回は実際に授業分析を始める予定である。
英語科教育特論(25日)
教材分析を始めた。よく何度も教材を音読することからはじめ、教材の意味と妥当性を吟味する方法を実践しているのだが、学生さんたちの発想は、面白い。どうも自分の発想が年を経るごとに道徳的、社会的に過ぎて意外性に乏しくなってきた気がする。経験ってのは、なかなか消せないものだ。テクストを音読しながら「これだれが言ってるの?会話の切れ目はここかな?」といった話題にいったり、アジアの話題の取り上げ方への抵抗感を議論しあったり、グループごとに真剣だった。もう一時間かけて教材分析を終えるが、次回の展開が楽しみである。次回の宿題は(1) テクストの読みをオーラルインタープリテーションのレベルまで引き上げるべく練習を重ねてくること、(2) テクスト中のコトバが実際にどんな風に使われているか調べる・思いを巡らせること、(3) 話題、テーマの扱われ方について意見をまとめてくること、である。参加者には教育実習では、付録のCDを使わずに、地声で教科書を読んで授業を進めることを課題にしてもらった。「言語使用者として自立できる教師になろう!」という私の願いなのだけれど、はたして9月までに、その目標はかなうのか。
オーラルコミュニケーション1(25日)
トピックは「私の好きな○○」とありきたり。最初、二人でチャット。その後、お互いの会話中に相手にどんな質問をしたかを挙げてもらった。クラス全体で集約した質問を、カテゴリー(例を求める、とか)に分類した。それらの質問に先回りして応える形でスピーチを作ってみよう!という課題を与える、いわば「ボトムアップ式のスピーチ構成指導」を試してみた。dialogue的なmonologueといいましょうか。まあなんとか結構うまくいったかなあ。参加者にどうだったか聞いていないので何とも言えません。あと、相づちの練習をしようと思ったのだけれど時間がなく中途半端だったので、次回改めてやる予定。聞き手としてのコミュニケーション指導もちゃんとしないとね。
授業日記 2001年4月20日
英語科課題探求
英語教育の目的についてグループ討論を行った後、全体で意見の共有をはかった。話す相手のない英語学習、English is the key to the real world. 実践的コミュニケーションの「実践的」への意味づけ、「基礎基本」の解釈、文化理解、有機的4技能の統合、会話と対話、自己実現を援助するためのコミュニケーション指導、英語の必修化による大衆化、などなど、キーワードだけでも千差万別で、これといった収束する先を見いだすことができなかったのが、まとめ役としては失格だった。まあしかし理解は個人の中にそれぞれあるだろうし、みんな大人だから大丈夫かななどと甘えている。
今回は3人グループになる際に、周りの人と話し合って「何らかの共通点のある3人組になる」という条件をつけてグループ編成をしてもらったが(大の大人に何をさせるのか)、小学校、中学校、高校の教師、と職場の校種別グループ分けになった。知り合って間もない方同士だから無理もないが、今期の最後には、もっと深みのある共通点を見いだしあえるよう授業展開も心がけていきたい。出色だったのは「この前飲み会で初めて会った」グループ。彼らはいわゆる「ストレートマスター」なので、社会経験が少ないことがかえって幸いしたのだが、まだほとんどの皆さんが「教師」の仮面を一番上に被っている(教育学の授業なんだから無理もないけれど)。来週は仮面一枚剥いだその下を覗けるのかどうか、楽しみである。
このようなWho are you ? What are you ?といった問いかけを念頭におきながら、次回は英語教育に関わる文化の概念を検討する。
授業日記 4月18日
英語科授業研究(17日)
10名参加。ある授業のビデオを授業観察後、グループで討論を行い、意見交換した。その後、全体で意見を共有しながら、授業を見る視点の多様性を実体験してもらった。その多様性の出所は結局各自の授業観の違いであり、ある授業を観察評価するということは、その授業の価値付けをするのではなく、自分自身の授業観や学習観を引き出すことになるのだということを確認しあった。これを鍵に、英語科における授業研究会の目的や運営方法を改善、工夫することをこの授業の目的であることを確認しあった。
英語LL演習(17日)
2名参加。聴講のみ希望の大学院生さんばかりだったので、とりあえず次回も(非公式に)開講することで合意した。その次は、だれにもわからない。
英語教育特論(18日)
学習者論について議論した。学習者の認知スタイル、動機づけなどについてのリーディングアサインメントを復習をかねて確認し、英語教育でよく用いられる2分法的尺度をいろいろ紹介(たとえば、field dependent/ independent intrinsic/ extrinsic motivation, integrative/ instrumental motivation)した。その上で、この種の視点の効用と限界を考え、学習者一人一人を詳しく理解し、それぞれがどのような学習経験を背負って自分自身の「学習動機」を形成しているかを把握するアプローチを紹介した。自分自身の学習履歴についてインタビュー形式で語り合うことで、自分が何にこだわり、やる気を形成してきたかを把握する体験を通じて、つまるところ学習動機というものは、外から与えられうるものではなく、自分自身の過去の歴史をどのように認識するかによって、生まれたり、失われたりするものであることを確認しあった。
オーラルコミュニケーション(18日)
テーマは映画。映画について語り合うことと、映画を利用して英語を学ぶ際の留意点について学んだ。コミュニケーションの際に感じる種種の抑圧感、あるいは逆に高揚感(過度の)、などなど心理的作用は何によるものなのか、その原因を自覚することで、克服の糸口をつかもうとした。題材は「ゴースト」。これ見ていた学生はひとり。公開当時彼らは8才。私は、26才。ま、それだけなんだけどね。
新学期になった 2001年4月13日
あまりにも長期間更新しなかったので、訪問者のほとんどいないページになってしまいました。研究のページがこれではいけませんね。
今期の授業は大学院3コマです。教育課題探求、英語科授業研究、英語科学習論(集中)。コミュニケーション論や学習論を背景に授業研究を行う身としては、研究に直結した授業編成は有り難いのですが、半期で3コマ、受講者の顔ぶれがほぼ重なるという状況なので、実質すべてを連動させて授業運営することが可能かもしれません。でも同じギャグの使い回しができないのがつらいところです。寡黙な講義者(?)になってしまいそう。
教育課題探求では、文化論とアイデンティティの問題から話題を起こして、アイデンティティとコミュニケーションの関連に言及しながら、「人間がコミュニケーションしあうこと」の意味を、言語の仕組みやその使用を教える英語教育の視点よりも、もう少し大きな視点でとらえなおして考えてみたいと思っています。それにより、英語によるコミュニケーションを教育目標に標榜する日本の学校英語教育における授業のあり方について再考します。大風呂敷を広げるような話ですが、毎時間少しずつ参加者同士の協議を重ねてゆけば、最終的には、おおざっぱなキャッチフレーズ的英語教育論ではなく、緻密でコアな論考ができるのではないかと期待しています。
探求での議論の積み重ねと並行して、英語科授業研究では、実際の授業をビデオで観察しながら、その授業自体を分析すると同時に、分析に参加する者自身の英語教育観を描出する研究法を実践してみようと考えています。他者の授業は、いわば、自身の授業観を見いだすための「鏡」です。このような授業分析法を洗練することで、各地で行われる「授業研究会」のさらなる質の向上につなげていきたいというのが、私の授業意図であり、目標であります。
両授業の内容が連動して、より具体的、実践的、かつ強固な英語授業に対する洞察を参加者が持ち得たならば、今期の授業は成功、ということになるでしょう。ま、大風呂敷広げて、絵に描いた餅を包むような目標設定(?!)ですが、努力努力。9月に行われる予定の英語科学習論については、正直なところ、まだなあ〜んにも考えていません。今期の大学院授業の集大成(おおげさ)になるはずなのに、、、実際のところ、私はそんな人間でございます。
(今日の授業日記)英語科課題探求の受講者は18名だった。参加者のみなさんは大変個性的だと思う。文化論、コミュニケーション論、学習論を議論すること、個人レポートと自己評価に加え、グループ研究を評価対象にすることで合意した(してもらった)。グループ研究のテーマとチームを決める時間を来週とる。リーディングアサインメントは事前に全部配布したほうがよさそうだ。教室の形が悪い(縦長)ので距離を感じる。使用言語は日本語になったが、外国人学生には不利な環境なので別に支援をすべきだろう。次回は英語教育の目的について語り合い、自分の意見を相対化しながら今後の探求テーマを探ることとする。
学会日記 2000年8月29日
あまりにも長期間更新しないと,だれにも訪問してもらえなくなるものです。学会等の行事を終え,ようやく夏休みらしくなってきたので,再開しようと思います。
まずはこの夏を振り返る意味と,このページの冠であるリサーチに関わる意味で,この夏までに参加した学会3つについて簡単な感想を書いてみたいと思います。
1四国英語教育学会
5人で研究発表をした。30人を越える方々に聞いてもらえました。アクションリサーチだと解釈された感があり,研究方法の説明に工夫を凝らす必要性を感じ,全国の時には修正することにした。「質的授業分析研究」のインパクトの強弱は,読み手,聞き手の経験に依存するので,反応も聞き手によってまちまち。そして何より質問が出にくい。研究手法に関するメタ的な質問があったので助かったけれど,質問してくれたのは四国英語教育学会の方ではなく,関西の方だった。
2日本認知科学会
多種多様な参加者,研究が集まる学会で浜松で開催された。バカな私はクルマでいったので駐車場に苦労した。それはさておき,今回の認知科学会は,収穫が多くなかった。若林,佐伯氏の「ケア」という概念で捉える学習理論が,なかでは数少ない収穫だったといえる。これが,全国英語教育学会での研究発表に大きな影響を与えた。「うなぎ茶漬け」にもずいぶん影響を受けた(?)。
3全国英語教育学会
東京国際大学は埼玉にある。宿泊先の池袋から川越市まで電車に乗って発表にいったが,今回はスピーカーとして実際発表したので幾分緊張感もあった。15の発表会場があるのに参加者は300名程度(だと思う)なので,聴衆の少なさを心配していたが60人を越える方に聴いてもらえたので,四国同様,やりがいがあったと言える。5分間しかない質問の時間の大半をいわゆる「別のキャンプ」の方から受けたので,我々の研究の立脚点を強調するのに終始してしまった。同種の研究をする方からの指摘も欲しかったが,まあいっか。発表はおおむね好評で,岡秀夫先生にも面白かったと言ってもらえたし,同年代の研究者,高校の先生にもいろいろと発表後に質問を受けたので,成果は上がったと思う。パワーポイントを用いた今回のプレゼンテーションは,効果絶大で身内に感謝するのも変だが,三宅淑子先生には,感謝してもしきれない。
アクションリサーチに関する問題別討論会に出たが,発表後のフロアでの議論が面白かった。ああいった場で発言するのは,リスクも負うが(安っぽい発言にはフロアは冷たい),発言しなければ得られるものも少ないので,36才,十分おっちゃんなので,そろそろ図々しく発言しようかな,と思った。
4鳴門英語教育学会
今回は,STEPの派遣講師制度のおかげで,谷口幸夫先生と清家佐保先生を迎えることができた。「手をあげる」時に感じるむずかゆい緊張感を久しぶりに感じ,生徒の気持ちが分かる気がした。清家さんの勢いに乗せられて,手を挙げて発言した。誉められると,やはりなんだかうれしい。授業では先生が権威者でありすぎてはいけない!なんて言っているのだが,現実問題,権威者に認知される嬉しさに身を委ねる学習があっても,ま,いっか,とも思った。お二人のご活躍,特に谷口さんの全国行脚には敬服するばかりだ。
本来の学会発表の方は,聞くことができなかった。今後もっと発表数が増えるよう,発表した「見返り」の工夫が必要かなと漠然と感じた。懇親会では蓄積した疲労のせいか,つい「夏休みは家族サービスに専念します」などと言わなくてもいいことを宣言してしまった。撤回はしないが,反省はしている次第である。
体を動かそう 2000年5月31日
先日、NHKの番組で中国のカリスマ英語教師?が紹介されていた。Crazy Englishと称する彼の英語指導法は、その番組から理解する限りにおいては、ちょっとだけ面白かった。発音指導に体を動かすのだ。例えば、mapの母音aeの音を発音する際に口の動きに併せて手を口に模し、それを大きく開く動作をする(人差し指を上顎、中指以下を下顎に見立て、人差し指と中指の間を力いっぱい広げる)とか、go, noなどのouの二重母音を発音する際にはoの発音時に手を上から下へ動かしuに移行する時に下から上に上げる(つまりJの文字を描くように動かす)。このように手の動作で口の動き方の特徴を強調し、連動させることで英語らしい発音を身につけさせるものであった。
このような体と言葉の動作の統合という指導スタイルは、伝統的指導法に自身の学習観を委ねている人が想像する以上に有効な手段かもしれない。そもそも口だって体の一部には違いないのだけれど、彼の「体を動かして言葉を覚えよう」というメッセージは傾聴に値すると思う。
異文化理解教育を英語科でおこなうことの意味 2000年5月1日
鈴木孝夫は英語科では国際理解教育を行わず、日本の歴史や実状を英語で語る訓練をせよと述べている。結果的にその方がよほど国際社会においては役に立つと。確かに、現在の英語教育の現状と比較して、鈴木の提案の方が理にもかなっているし、効果も上がるであろうと思われる。しかしながら、何かが欠けているような、行き過ぎているような感も否めない。端的に言って、国家主義的にすぎるのではないか。鈴木は中国の英語教育の例を挙げて、国情を英語で表現する力を鍛えることを説いているが、中国の英語教育を単純に良しとしてよいのだろうか。私の答えは否である。
鈴木の提案に異論を唱える前に、現在の日本の英語教育がなぜ鈴木の提案に劣るのかという点から説明をしよう。日本の英語教育は差別意識、偏見、先入観、ステレオタイプに基づく、あるいはそれらを生み出し強化する教育になっているといえる。本多勝一は『英語教育』2000年5月号において、英語がいかなる理由であれ国際語、世界語、地球語といった特別な地位を与えられてはいけないと説いている。また現状において、それが行われ、それを理由に英語教育の動機づけされており、英語に対する本来根拠のない付加価値が与えられていることに警鐘を鳴らしている。英語は日本語に比べて論理的な言語だなどとのべ「英語を学んで論理的思考を身につけよう」と生徒に説く愚かな教師は今さらいないであろうが、「英語ができるとかっこいい」「英語は国際語だから学ばないと国際社会に出られない」などと、他の外国語には付随しない数多くの付加価値を英語だけに与えて、学習者の学習意欲を高めようとする。英語会話学校の宣伝広告に見られるように一方で英語は地球語と言い、他方で先生はみんなネイティヴスピーカーであることを高らかに唱う。このようなちまたの英語学校ほどには、教育目的の矛盾にあっけらかんとしてはいないだろうが、公立学校の教育であっても、その中身は大して変わらない。教室にALTを迎えて国際理解教育を行う。ALTを異文化理解の対象とする。教師のアメリカ体験記としてマクドナルドでの失敗談を話しては、彼の地での生活知識を教え込む。このように、英語の、そして英語話者の価値を過剰に強調し、結果として学習者の劣等感を煽ることで英語学習の動機づけを行うような教育など、差別意識を煽りさえすれ、解消することなどあり得ない。その点では、鈴木のような日本の歴史や伝統を英語で話そうといった提案のほうが優れていると言えると思う。
英語科で異文化理解教育をおこなう意義があるとしたら、それは、以上のように現在の英語教育がきわめて異文化理解教育の観点から見て望ましくない状況にあるからである。端的に言って学校教育におけるどの教科よりも、英語の授業は偏見と(被)差別に基づいて行われ、偏見を煽っているのである。異文化理解の根幹は、そういった偏見やステレオタイプ、差別意識の自覚と根絶にあることは言うまでもない。英語教育はしかるべき異文化理解教育の基盤の基に行われるべきである。しっかりとした異文化に接する際の態度を育成しながら英語教育を行うことが、国際社会において不平等を自覚しながら必要悪として英語を使い、一民族語の運用能力で人の価値を判断することなく振る舞える人間を育てることにつながる。
鈴木の提案に欠けている側面は、英語を学ぶ意義づけ、動機づけが明確でないという点である。鈴木の提案のように英語教育から国際理解教育を無くすのではなく、異文化理解教育をしっかりと行うことで、世界の言語的不平等感を自覚させ、それでも英語を学ばなければならない理由と第二言語としての英語話者のスタンスをしっかりと自覚させることができるし、そうしなければならないと私は主張したい。(ちょっと大津さんの意見に似てきたけれど、根本的に違うのは、大津さんはメタ言語意識の育成を突破口に言語の平等性・悪用の可能性?を教えたいとしているのに対し、私は、異文化理解教育でもって指導すべきだと言っている点である)。
異文化理解教育を十分に行いながら、偏見や差別に強い英語話者を育てていくことの大切さはここでことさら声高に主張する必要もないあたりまえな話かもしれないが、さて実際にはどうしたらいいのか。これは私たち非英語母語話者だけの問題ではない。英語が国際語、地球語の地位を本当に担うのであるならば、その母語話者は、それに対する代償を払わねばならない。例えて言うなら、柔道が国際化された結果、柔道着の有色化を日本の柔道連盟が認めなくてはならなくなったようなものだ。そのことをALTには強く意識してもらいたいし、それに従って学習者への態度も変えて欲しいと思う。英語圏国民は自国語が大きく変化してゆくことを当然のことと受け止め甘んじなくてはならない。「やはり正しい英語を使わないと国際社会では外国人(非英語圏国民)といえども認められない」といった発言は、民族語の尺度を国際語に当てはめようとする母語話者の傲り、と解釈されてもしかたがない。母語としての英語と国際語としての英語はそれぞれ異なる基準で位置づけられ評価されなくてはならない。国際語として英語が機能する際には、母語の異なる英語話者が、言語コードを共有しようとするわけであるから、実際に共有できる部分というものは、同一社会で母語としての英語を共有してきた母語話者の場合と比べて、遙かに狭い少ない小さいものになる。しかも共有できない部分、つまり「英語ではあるけれど、何を言おうとしているのかよくわからない」ことばについては、互いにそれを意味づけ合い、つじつまを合わせあいながらコミュニケーションを図ろうとすることが要求される。その努力は、だれもが水平の立場で平等に払わなければならないものであり、母語話者であろうがそれは同じである。
Microsoft Windowsのように英語を使わなければならない時代は来ていると言って良いかもしれない。そして英語の今の位置づけが今後大きく揺らぐことはなかなか想像しにくい、という理由で我々は学校での外国語教育においてことさら英語に力を入れているが、それ以上の理由ではないのである。
「英語は国際語として有用、しかし国際理解/交流教育は英語教育とは別にやる」 2000年3月2日
なぜか。英語が国際語として機能する理由はその拡がりにあるのは確かだが、それだけではない。例えば中国人とコミュニケーションをするのに中国語でも日本語でもなく英語を選ぶのは、中立性を確保するためである。日本人がへたな(とは限らないが)中国語で中国人と交流するのは相手に喜ばれるかもしれないがこちらは骨がおれる。逆もしかりである。両者の水平関係を維持するために英語を使う選択はただしい。
英語をネイティヴスピーカーから習うのは正しい選択である。しかし、英語を学ぶ理由は彼ら母語話者と話すため(だけ)ではない。国際交流である。国際交流における中立言語としての英語の価値を鑑みると、ネイティヴスピーカを交えた英語学習の時間(Team Teaching)に、国際交流教育を同時に行うことは、この中立性を欠くことになるので、望ましくない(注)。子ども達の頭の中に、国際交流=言語的不公平感がべったりと塗り込まれるような国際教育ならやらない方がいい。
アメリカ語でもイギリス語でもカナダ語でも、民族語としての英語を学ぶことはいい。中立的英語など実体を持たないからだ。模範になる言語が民族英語になるのは構わない(それしか選択肢はない)。しかし、我々教育者は、子ども達に英語を学ぶ機会と同じくらい、国際交流のため(特に非英語母語話者との交流)に英語を使う機会を提供すべきだと思う。
総合的な学習の時間に、国際理解/交流を行うのは、グローバル化に役に立つことだと思う。しかし、英語学習と国際理解は上記の理由で切り離した方が良いと思う。中学以降の総合学習の時間では、ぜひどんどん英語を使った国際理解活動を英語母語圏ばかりでなく他国の人と行って欲しいと思う。
(注)国際理解教育を「偏見、差別の排除教育」ととらえ、それと英語学習を組み合わせるような試みもあり、それならいいと思う。ALTを異文化の所有者と考え、彼らとの交流/理解を主眼においた授業展開は望ましくない、と言いたいのである。一概に国際理解と英語教育を組み合わせるのは害とは言い切れないが、2世帯住宅みたいで、なんだか大変そうだなあ、という印象を私は拭えない。
異文化理解はどこでやる? 2000年2月18日
nihongo:今日は、問いかけだけ。ALT研修で「日本の学校教育が英語を選択するのは、あなた方母語話者と話すためじゃなく、第ニ言語として英語を話す人たちと交信するためだと思う」と発言したのですが、何もそこまで言わなくてもよかったかな、と幾分後悔していました。今日大学院生と英語の時間(特にTeam Teaching)に異文化(国際)理解を扱うことについて話していて、その時の記憶が蘇りました。「英語母語話者と英語を使って異文化理解教育を行っていて、本当にいいの?」とゼミ生に問いかけながら、自分もこの問いについて考えていました。ここを読んでくださっている皆さん、どう思われますか。
英語: I said in the talk at the Tokushima ALT study meeting in January something like this: The Japanese school education chose English NOT (only) because we should be able to communicate with native speakers, but because English probably has the larger population of the second language speakers than any other language. I somehow still feel uncomfortable about what I said. Was that a reasonable opinion, or too much (of what, I don't know)? Today I was talking with graduate students about whether Team Teaching class (with an ALT) is a good occasion to teach international (intercultural) understanding, or not. The common sense answer is yes definitely because that is practically the only chance for most of the Japanese students to meet with non-Japanese people. But the second thought may go like this, "The diversity of nationalities of ALT is too small. Besides, we are obliged to speak THEIR native language in OUR country. It's weird." (Note: I am NOT a nationalist.)
英語でちゃんとしゃべる。 2000年1月25日
徳島のALTの皆さんと一部の日本人の英語教師対象の研修会で一時間ほど時間をいただき、英語教育について話してきました。このような貴重な機会を与えていただいた県教委の方々には心から感謝いたします。講演の主旨は、言語使用と言語学習を概念として分け、両トピックについてSLA研究でこれまで議論されたことを、それぞれ3種類ずつのCommon Viewsとして紹介し、自身の言語使用観、言語学習観を確認し普段の実践のあり方を振り返ってもらおうというものでした。その報告は機をあらためて行うとして、その講演のあと、ある参加者に言われたことについて、ちょっと考えてみたいと思います。その言われたこととは、「どの観点で英語を教えようとも、それがうまく行くかどうかは結局動機づけの問題である。やる気さえあればどの方法論でも学習は上手くいく」というものでした。ここで問題にしたいのは2点(1)動機づけ(2)学習方法がなにでも結果は同じ、についてです。(1)については、動機づけは英語学習を始める前に発生するばかりのものではなく、言語学習の過程において日々変化する性質のものであり、経験の積み重ねの中で培われるのだから、動機づけを高めるも低めるのも、指導のあり方抜きには語り得ないはずです。だからやる気さえあれば上手くいくという議論は乱暴です。(2)については「理論と実践は違う」という議論と根っこは同じで、言語学習理論と、日常の言語教育実践は直接的に結びつくものではない。よって3×3の言語使用学習理論のどれを採用しても、実際の授業内容、その効果という点では大きな変化はない、という議論です。私はこれも違うと思います。なぜか?古典的な英語教育研究用語を用いて説明してみましょう。
Approach - Method - Technique
日々の授業で使う具体的な指導をテクニック、よりまとまった指導法をメソッド、指導法を支える理論的で包括的な言語学習観をアプローチと呼ぶ、と昔「英語教育学概論」で教わった記憶があります。このコトバの意味を最近まで「単なる分類遊び」「便宜的な説明のための道具」と考えていましたが、そうとも実は言えません。アプローチ(理論)はメソッドやテクニックに「意義づけ」をする役割を持ちます。ひとつのテクニックに対して、ふたつのアプローチから別々の意義づけが各々になされることは、決して珍しいことではありません。よってアプローチが異なっていても、日々の実際の授業内容は結構似ている、という可能性は十分にあります。
「ベストの教授法というのは存在しない。あえていうならEclectic Methodがベストである。」といった種の言説を「要はなんでもあり、The best method is the ones that work.ということか。」と斜に構えて皮肉ることもありましたが、そうではなく、よい折衷と変な折衷があって、良い折衷はアプローチのレベルで統一があるが、変な折衷には統合される原理がない、と言えます。また同時に、教室で起こっていること(学習、言語使用、その他)は、一様の現象ではなく、その時々の生徒の行動を考えるには、単に「言語学習理論」だけで片付くものではありません。教室を端的に説明できる理論はないはずです。コトバを学んでいる時と使っている時は人間は違うことをしています。それがひとつの原理で片付いたら奇跡です。指導法が折衷的にならざるを得ないのは、英語学習/教育の事象(教室で起こっていること)が一様でないことと、メソッドやテクニックなどの具体的なレベルに降りてくれば、いろんな活動にいろんな意味づけ、理論づけができ「このテクニックは、このメソッド&アプローチにのみ基づくものだ」などとは明言できないということが理由になっていると思います。極めて当たり前の話しですが、Krashenの提唱する5つの仮説が誤りでありながら、彼の提唱する指導法が多くの実践者に受け入れられるのは、「実践と理論は関係のない話し」だからではなく、1対1で結びつく類のものではないからです。まったく異なる理論からの意義づけがひとつの実践にできる、ということです。
それにしても自分の話す英語を聞いて思うのですが、喋るのが遅い。のろい〜。単数、複数の使い分け、定冠詞の使い方、主語ー動詞の一致、前置詞の選択その他簡単な文法が思った以上にぼろぼろ。自分で録画を見直しただけですぐわかる間違いがかなり多く、それらの間違いに話している時は気がつかなかった。このあたり考えてみても、一所懸命文法規則の理屈を覚えることの意味なんて、スピーキングのためには無駄じゃ、と思いますねえ。またbut, er... I mean ...が多い。コトバ/説明が足りない。悲しいいいい。
MD CD DV LD VHS SVHS MO Hi8 FD え〜と 2000年1月14日
鳴門教育大学のLL教室が新しくなりました。コンピュータも備えたCALL教室へと進化し、来年度から授業に、学生の自習に使われる予定です。今日は(も)リサーチとは関係ない話題をすこし。
しかし、進化を素直に喜びその新機能のメリットを享受しながら、より良い授業が展開できそうかというと、ちょいと不安が残ります。その理由のひとつが音声、映像の記録媒体の多さ!ハイテクが嫌いではない私ですが、メディアの多さには辟易します。教材を研究室でつくって、CALL室で使おうと思うのですが、研究室で使っているJAZ DriveはCALLにはありません。ネットワークで送ればいいじゃん、といえばそれまでなんですが、「昔気質」の私としてはあまりトラフィックを増やしたりサーバのメモリ消費したりしたくなくって。。
おかしな話しです。結局記録されるのは、音声と映像とテキストだけなのに、記録メディアの種類ときたら膨大!それらのリソースを取り込むために諸々の再生装置が必要になり、それを統合操作する機械が必要になり、先生の操作用デスクは横幅3メートルは越えようかという代物です。日立だったかは記録メディアを統合する!とCMで宣言していますが、お願いだからさっさとやって欲しいです。最新のマルチメディア言語学習支援装置が、はやくあんな大掛かりなものでなくなる日が来るよう願わずにはいられません。
とはいえ、コンピュータを絡めると言語学習支援はかなり変わりそうです。さて、何からはじめましょうか。シーマン英語版ってないのかな。マックファービーとか。
Is English 'a dead language' in Japanese schools? 2000年1月7日
あけましておめでとうございます。今年もここで発言を続けていきたいと思います。
今月20日、徳島県のALTの皆さん対象の研修会で1時間ほどお話させていただくことになりました。そのタイトルが上記の「英語は日本の学校じゃ死語か?」です。ちょっと皮肉かなあ。昨年中このサイトや大学の授業、学会において、英語教育の目的、コミュニケーション、学習、小学校英語教育などの話題について語ってきたことをまとめると、英語が教室で「死語化」しているという結論になりました。もちろん生き生きとした言語学習環境を提供している英語の先生もたくさんいらっしゃることは分かっているつもりです。ですから上記の疑問文への私の答えは、Unfortunately yes, in some classrooms. です。今回の講演では、英語を死語化させない方法を具体的に考えてみようという提案をします。100名以上の英語教師(日本人とALT合わせて)に皆さんに、英語で講演するのは初体験なので、ちょっとキンチョールです(こういう馬鹿な冗談言えない分、英語の方がいいかも)。ハンドアウトが、もし出来たらこちらへアップしますので、どうぞその際には、ご意見いただけると幸いです。
OC-G 1999年12月21日
Oral Communicationの時間に入試対策でGrammarをやる、通称OC-Gなるものの存在を聞くことがあります(どれほど実際に行われているのかわかりませんし、入試対策でない文法指導もあるかもしれません)。入試対策OC-Gの原因を「大学入試センター試験にリスニングがないから」と入試のせいにする向きも聞きます。大学入試センターは、別にリスニングしたくないわけではなく、50万人以上の受験生に同条件でリスニングテストを実施する方法に苦慮しているだけだと知っているにも関わらず、そういうこと言いますか?まあセンターの慎重さ(ふがいなさ)を擁護するつもりはありませんが、OC-Gの正当化の言いわけとしては最低の部類だなと思います。リスニングはリスニング、リーディングはリーディングと「4技能」別々に英語力を考えているから、リスニングなんかできなくても、英語は読めるし、いわんやテストで点はとれる、と考えるのでしょうか。
「音声なくしてコトバの意味はわからない!」と、自身の経験でも例にあげながら生徒に音声化を伴わない言語理解(読み)の不自然さを解き、OCが英語の読みにどれだけ役に立つのかを解いても、生徒は納得しないものでしょうか。リスニングはリスニングのためにやるんじゃない、と教師が自信もって言い切ってOC(というかちゃんと音声を伴った言語の教育)をやっていきたいものだと思います。
現職教員の大学院研修 1999年12月7日
標題について、文部省のお墨付きがでた、というか、制度化がなされることになりましたね。無給なのが難点だと柳瀬さんのサイトの「中庭」に発言がありました。確かに無給はひどいな〜。給料の3割カット程度というのは無理なのでしょうかね。遊びにいってるんじゃないんだから、「研修」なんだから、それも仕事のうちでしょうにね。今一歩踏み込みが足りない政策。給料全部カットくらいでないと、希望者が続出するとでも考えられているのでしょうか。
しかし将来に向けてこの制度を発展させていくためにも、現状の条件の厳しさをものともせず、現職教員の方に研修に来てもらえるだけの大学院プログラムづくりに勤めなければなりません。鳴門や兵庫、上越などの教育大学院中心の大学は、実質、現職教員大学院生によって成立してきた大学であり、そのひとつに勤めている経験からすると、今回の文部省の政策は(遅すぎるという意見もありますが)学校教育に好影響をもたらすものだと思います。そのように教官の私が言っても手前味噌的に聞こえるかもしれませんね。しかし、実態は教官の影響うんぬん以前に、学部卒業したばかりのいわゆるストレートマスターとが混成する組織である点が、非常に良い効果を生んでいると言えます。教官が奮闘して「教育」せずとも、大学院生の間で「古参」の現職と「新参」のストレートが「学びあう共同体」を形成するわけです。もちろん教官側の、そう仕向ける努力(両者を引き離すような愚行を慎む配慮)も大切です。国内の他の教育系大学院も同じような状況になるといいなと心底思います。教官との1対1の徒弟的関係?で成り立つ大学院よりもいいなじゃないかと思います。ひとつの専攻に10人程度の定員がある教育系大学院ならば、そうなる可能性が高いという印象がありますが、どうでしょうね。少人数でも大丈夫かな?
英語科授業研究会をシュミレーションする 1999年11月9日
英語に限らない話しだとは思いますが,授業研究がもっとも精力的に行われているのは,各県の教育委員会レベルで行われる研究授業,授業研究会のようです.全国英語教育学会での授業に関する研究というのは大変少ない,現在はほとんどないと言っても良いかも知れません.教育現場から見れば役に立たない,研究者から見れば研究じゃないと言われるどちらつかずに追いやられたからかもしれません.
今期の授業では,学会研究的英語科授業研究での方法論が,各県の授業研究会でなんとか役に立たないか,考えています.授業研究会では,代表者の研究授業,その後の合評会で指導主事を中心にした参加者のコメント披露というスタイルが一般的のようですが,その現状を振り返り問題点はないか,実り多いと感じているか,何か望むことはないかを検討し,改善策を具体的に錬ります.そして実際に,テーマを決めた(異文化理解,TT,Oral Communication)授業研究会を行い,研究会運営の方法改善を探ってゆきます.
授業研究会が面白くなり参加者が増えれば,県の英語教師の横のつながりが増え,情報交換・共有量が増え,教師個人の負担が減る,などと簡単にはいかないでしょうけれどね.今ある教員研修システムの中で何かできることを始めてみましょう,という今期の「英語科授業研究1」の狙いを書いてみました.
最近のテレビを賑わす英語教育問題 1999年10月21日
「クローズアップ現代」
ATRの取り組み,脳の反応をfMRI?で分析した大学教授の話し,鈴木孝夫さん,小池生夫さん,岐阜市の小学校英語の取り組み(来年から始める)など,盛り沢山に紹介されていましたが,番組の大筋は音声(発音)重視,会話重視への展開でしたね.英文科を卒業して何十年も経つ先生が,英文科卒ということだけで,学校の英語活動のリーダーに任命され,アメリカへ11日の英語研修にいき,帰国後も発音の練習をパソコンソフトを使ってやっているケースが紹介されていました.
ATRの山田玲子さんはRとLの聞き分けについて,音の周波数分布に注目し,RとLの差は,高周波域に現れるが,日本語の音は中低周波域が弁別要因になっているため,日本人にはRとLが辛いんじゃないかという分析でした. 脳の反応部位に関する実験は,英語を「自由にあやつれる」学生と英語が苦手としている,ある「東大生」に英語と日本語のニュースを聞かせたら,自由君は日英で脳の反応部分が違ったが,東大君は同じだったという結果でした.
ま,音声重視,会話重視の傾向に異存のない私としては,どんな実験結果を出してきてもいいんですが,いわゆる「英語教育研究」が一切紹介されなかった点を,関係者は真摯に受け止めるべきでしょう.「自由君」と「東大生」に英語を読ませた時には脳の反応はどうなるんでしょうね.そういう調査結果があれば紹介してください.
ニュースから
総合的な学習の時間で英語が導入可能になることで,あちこちの小学校の積極的な取り組みが行われていますが,ある意味それに水を指すような政策が今日のニュースで流れていました.日本国内でモデル地区100を選び,その地区に在住の小学生4年生から6年生までの児童について,本人が希望すれば,無料で地域の英語学校へ通えるという話しです.この話しは既に最近発表されていましたが,無料で英語学校に送るのは教師じゃなくって児童だってところがポイントで,これでは,総合学習における英語活動の「援助」になるはずが,小学校での英語活動を空洞化し陳腐化してしまう可能性がでてきます.英語教育を学校から切り離す政策ともいえます.効果が上がればそれでいいじゃないというものではありません.この問題を取り上げたNHKニュースの担当者も言ってましたが,何のための英語教育かを見失うことになってはいけない,教育理念をハッキリさせる必要がある,と思います.民間の英語教育機関をひとからげにしてはいけないことは承知の上でいいますが,市場原理の上に乗って運営されている学校では,学生(消費者)の要求に答えることが第一です.理念が第一ではありません.私が,具体的に何を危惧しているかと言うと,やはり英語=アメリカンウェイです.うちの近くにある英語学校は新規学生勧誘のために今度「体験ハロウィーンパーティ授業」を行うようです.ハロウィーンのまねごとは研究開発校でも「定番」に近いイベントですから,英語学校だけを非難するわけにはいきませんが,何のために英語をやるのか,国際理解のために英語やるんじゃなかったのか,と言いたくなります.
本当の「英語を使った国際(異文化)理解」の何たるかを知りたいなら,非英語圏にいくべきです.中国へ留学した学生さんが言っていましたが,そこで中国語を学ぶ一方で,同じ目的でやってきたいろんな国からの留学生たちとは英語で話していたそうです.アメリカやイギリスの語学学校で「正しい英語(民族英語)」を「教えていただく」のは,国際理解のためなのか植民地化のための英語なのかわからなくなる.American slangを使う人に対してアメリカでは「何やそれ?わかる英語で言わんかい!」とは言えないですが,中国では言える.そういう環境で英語を使い学ぶのが国際社会での英語ではないでしょうか.
柔道も国際化されて,道着がカラーになったり,襟が分厚くなったりして,日本の柔道ではなくなっていきますが,それを受け入れるのは柔道が国際競技になった日から決まっていたこと.英語も同じだと思います.
徳島県中学校教育研究大会 外国語部会に参加しました 1999年10月8日
上記の研究大会が羽ノ浦中学で行われました.朝もはよから,研究授業3つ,その授業に関する授業研究会3つ,コミュニケーション能力育成に関する分科会2つ(評価と指導)昼食を挟んで講演会,と盛り沢山でした.県内から300人近くの中学英語教育関係者が集まる盛会で,企画運営に携わっていらっしゃった皆さんの御苦労に深く感謝いたします.英語講座の大学院へいらっしゃっていた方も御活躍の様子でした.
さて授業ですが,大変面白い実践でした.New Horizon Lesson 6 Living Together (アイヌ人と動物の間でサケを分け合う物語)の最終まとめの授業でしたが,JTEひとりで23人あまりの中学3年生に「Do you want to live in Aioi(中学のある地名)in the future?」というテーマでグループトークする"Well Talk" (井戸端会議とかけているそうで)を中心にした授業でしたが,決してにわか作りではできない "English Speaking & Learning Community"ができていました.先生のsponteneousな話題提供,転換によって,生徒はattentiveに話しを聞きますし,同時に生徒の発言を細大もらさず聞こうとする態度(しばしば生徒の発言を止めて,What did you say?等,聞き返しをしていた)のお陰で,生徒は一所懸命伝えようとします.Communicationがこのように密に成立し出すと,生徒はテキストの英語の他に,自身の発言,他の生徒の発言,そして何より先生の発言というマルチなインプットを受けることができます.そう思って聞いていると先生の口癖 " Okay "がなんとなく生徒にうつっています.生徒の英語はまだまだ大半は考えてつくって読んだ英語ですが,時々「共同体の生きた言葉」になっているように感じました.にわか作りではないことがこの事からもわかります.
英語でディスカッションすること自体は決して珍しい試みではないのですが,生徒のコトバが「借り物」の域をでている様子は,今まであまり見たことがありません.ディベートなどのように論理的に結論だす,ゴールの決まったディスコースではなく「井戸端会議」だったことが成功の秘けつだったかもしれません.そして,これは多くの「達人」に共通することですが,芸が工夫が細かい!Today's Teacherという授業運営の一部を仕切る役を生徒にさせる,ネクタイなんかセサミストリート柄,自己評価シート,グループリーダーの利用,などなど,雰囲気作りが周到でした.そして何よりこの授業を支えていたのは,普段からの先生を含むクラス全体のコミュニケーションがとれていることでしょう.いやあ,良い実践だった.相生中学の岡田栄司さんには,心から感謝いたします.
(残念ながら他の授業実践は見ることができませんでした)
分科会もコミュニケーション評価のためにいかにALTとJTEが奮戦していらしゃるか,よくわかりましたし,講演会(兵庫県自由が丘中学の岩本京子さん)も具体的で効果的で,指導実践の楽しさも苦労も交えてお話してくださったので,とってもリアルでした.
全体会で挨拶にたったある高校関係者が「中学の活発なコミュニケーション活動を見ていると,高校でそれを十分に受け止め引き継いでいるか不安になる.しかし,それも高校は大学受験をどうしても意識してしまうからだ.ここにも来ている大学の関係者に入学試験に改革を望みたい」といった事を発言されました.ま,よく言われることではありますが,,うちの大学の入試問題も早く公開しなきゃ,と思いましたね.受験生のためばかりでなく,先生に大学入試の実態を理解してもらうためにも,早く情報公開しなければなりません.大学入試はかなり変わっていますよ〜ん.
JASTECにて 1999年10月5日
JASTECの中国四国支部大会に参加してきました.学会長の講演,研究発表二件,パネルディスカッションが行われ,私はパネルディスカッションの提案者のひとりとして30分時間をいただきました.提案の内容についてはこちらをご覧ください.はじめて参加する学会で,研究的状況も知らぬまましゃべったにも関わらず,穏やかに好意的に受け止めて下さった学会員の皆さんと,この機会を与えて下さった比治山大学の馬本さんをはじめコミッティーの方々に心から感謝いたします.反省としては,新鮮みに欠ける「理念的」な話しが多くて,実践,実状の盛込みが足りなかったのではないかと思います.にもかかわらず,多くの方に質問,コメントをいただいたことで,自身の論考を深めることもできました.懇親会も楽しかったし,ああ良い学会だった.中国四国支部といいながら四国の会員は少ないそうです.四国の幼児,児童英語教育に関わられている方へ参加を呼び掛けたいものです.
小学校での国際理解教育と英語教育(3) 1999年9月30日
今度の日曜日(10月3日)JASTEC中国四国支部大会のパネルディスカッションで提案をする内容をここに掲載します.まだ途中です(大丈夫か?)
基本的なスタンスは小学校での英語教育がいかにあるべきか,ではなく,総合的な学習の時間における国際理解の一環としての英語活動の是非,意義,可能性を考える,ことにあります.
総合的な学習の時間で扱われる課題には(1)環境,福祉,情報,健康,国際理解などの今日的な課題,(2)児童生徒の興味関心に基づく課題,(3)地域や学校の特色に応じた課題,などがあります.また,これらの学習活動は,社会的体験,観察・実験,見学・調査,討議・発表,ものづくり,など体験的,問題解決的な学習が展開されることが強く望まれています.総合的な学習は,教科型学習の対極にあり,その不備を補う学習の時間です.今日の学校教育の行き詰まりへの対応策とも言えます.このような総合的な学習の時間の成り立ち,背景は重視されなければなりません.「小学校への英語教育導入」と他教科に並べるような発想は主旨に沿いません.
環境も情報も(おそらく福祉や健康でさえも)国際的な問題であり,国際理解教育の重要性は高いものになるでしょうが,しかし同時に(2)(3)の観点で学習課題を選ぶケースも多いことでしょう.総合的な学習の時間で英語活動が実施されるには(1)〜(3)が満たされる必要もあるでしょう.
3日の発表では「国際理解」という用語に変えて「グローバルアンダスタンディング」を用いて小学校での英語教育との関連を考えてみたいと思います.前述のように「国」を単位/境界とする教育は,異文化理解の一部であり,文化の単位はフレキシブルに捉えようという意図から「国際」は使わず,また,異文化理解でなく「グローバル」を用いたのは,異文化理解が英語教育と重なる文脈で語られる場合,一般に日本語圏内での異文化を指してはいないからです.(後述しますが,グローバルでいこう!と言いたいのではありません.英語しか共有できる言語がない相手と話す時でも,基本は個人のつながりであり,「◯◯国の人」と話すわけではないですものね.)
これまでにも「グローバル」はissues, education, understanding 等の語と一緒に用いられてきました.例えば,global educationとは,浅川和也さんが『現代英語教育』1993年9月号p30で,環境,開発,人権,平和教育からなる,地球的問題の解決にむかう教育であり,参加型学習をその教育方法の特徴に挙げています.
小学校での国際理解教育と英語教育(2) 1999年9月24日
国際理解教育と英語教育の合体について否定的な考え方を鈴木孝夫さんが『なぜ日本人は英語ができないか』(岩波新書)で示しています.これについては,私は「国際理解」の意味,内容について違う見解を持っています.鈴木さんがやめようという「国際理解」は多分に教養的内容の吸収一辺倒なものです.英語圏および諸外国の事情を学ぶことを第一義にした受信型と言えばいいでしょうか.彼は「ただでさえ限られた英語の時間に,苦労して英語を学ぶかたわら,諸外国の文化や社会の事情を,それもほんのわずかだけ勉強してみても,国際理解など殆ど深まりません.」(p98)と主張しています.その主張はもっともだと賛成する反面,それは国際理解教育ではないのだと私は言いたいのです.鈴木さんは諸外国の事情を学ぶ受信型ではなく,日本文化を英語で伝える発信型の英語教育を目指すために取り扱う内容を日本事情にすべきだと主張します(この発信型教育論は国家(国粋)主義的で,その是非については柳瀬さんの意見に賛成します).鈴木さんの発言は常に「日本」を背負っています.日本人をひとまとめにし一枚岩のように語るのはその現れです.外国人と話す機会が多いとそうなるのでしょうか.この本を読んで全体から感じるのは,国家の教育を語り,世界における日本のあり方を論じる点で非常に「国際的」な論考をしているわけですが,同時にとても国粋的になっている点であります.国際的と国粋的は表裏の関係になりがちなのはわかりますが,私達が英語教育において目標としている国際理解とは国家意識に基づく人間を育成することではないと思います.「国際」「理解」などという表現をするからいかんのだ,と思います(小学校での国際理解教育と英語教育(1)で述べた通りです).
私もいろんな人と話しをする際,時には「日本人」として発言することもありますが,まれです.私が最近よく背負ってしまう枠は「英語教育研究者」でしょうか.NHKも最近日本の英語教育を頻繁に話題にするし,小学校の先生と話す機会もあるし..何かと社会性を意識させられるこの頃ですので.
他者とのコミュニケーションにおいて,自分が何らかの対立的な発言をする時,それはあくまで「個人」としての発言であるわけですが,厳密な意味で「わたしだけ」の発言というのはあり得ません.「私の意見」といいながら,同時に常に何か自分が属する共同体を背負って話しをしています.「今井家の一員」「30代なかば」「三重県人」「男」はては「人間」まで,時と場合,相手と話題によって背負う共同体は様々です.この背負う共同体の枠を「文化」と呼び,それを背負ったコミュニケーションが異文化理解であり,たまたま背負う枠が国家になれば,国際理解になる.事,コミュニケーションの見地で解釈する限り,国際理解は異文化理解の一部です.
一方で,国際理解の概念の中には,平等の理念育成や,社会問題に対する国際協力なども含まれる定義もなされていますから,「国際理解」という用語を前回の議論(ステレオタイプの固定だ)で一概に悪いと断じるのは単純すぎます.しかしながら,人間平等は国際理解に限った問題ではないし,国際協力活動にしても,環境,情報,福祉等の社会問題と切り離しては考えられないことを鑑みると,国際理解教育というものの中心または根幹には異文化間コミュニケーションにあるのではないかと私などは考えてしまいます.総合的な学習の時間で扱う国際理解を,平等,協力を含めた広義,多義の立場で解釈するならば,その中で英語教育の占める割合いは小さくなりますが,私は異文化コミュニケーションを国際理解教育の第一義に置いて良いのではないかと思います.そして,英語は日本人意外の人との異文化交流のために学ぶ.それを総合的学習の時間に行う,でいいなじゃないでしょうか.
(3)ではもう少し緻密な議論をしたいと思います.
小学校での国際理解教育と英語教育(1) 1999年9月9日
標題のテーマで,10月3日に行われるJASTEC中国四国支部大会でお話させていただくことになりました.このところ映画,芸能関係の随想的な軽い文章しか書いていないことを少し反省し,今現在,標題について考えていることを書いてみます.
「国際理解」というコトバは,かなり総合的学習の実践に悪い影響を与えていると思います.国家を単位とした交流/理解に学習内容を限定するのは「対他国(単数,複数)」という視点で授業を編成する傾向を生みます.例えば外国人のゲストを迎えて,そのひとの母国について英語と日本語を交えながら紹介してもらう,というスタイルの授業を少なからず見聞します.ゲストが語るその国に関するステレオタイプを,その国の人だからという理由で,正しいものとして鵜呑みにすることが要求されます.その国の人たちが毎週何人も来てくれて,いろんな話しを聞く機会,つまりステレオタイプを常に改編していく機会が与えられるなら,それもいいでしょうが,そんな恵まれた環境はそうあるものではありません.現実には,生徒の中にステレオタイプを固定させるような結果になるのではないでしょうか.それでは日本人教師が自分の外国体験を生徒に語って聞かせるのと構図的には変わりません.また,インフォーマントとして呼ばれる外国人ゲストの立場に立って考えてみれば,自分自身が母国をひとからげにして語る不愉快さも感じるでしょう.40人の日本人に囲まれたら,自身を母国の成員として意識し,国について語ることも自然なことと認識されるかも知れませんが,自分自身はないがしろにされ,自分を透かして「◯◯国人」を見る40人の目を感じる時に,果たしてどう思うことでしょうか.私ならば「日本人は〜ですか」等と質問される時,幾分でも寂しく感じ,そういう舞台設定をした教師の見識に落胆を禁じ得ません.「インド人とカレーを作ろう」って企画もよく聞きます.日本人だから寿司が握れるって思われるのイヤじゃありません?
「文化」の単位のひとつとして日本なりの「国家」を想定する場合には国際理解という用語があてはまるわけですが,現実には文化の単位はさまざまで異文化理解の一部と考えるのが妥当です.小学校における教育においてはこの「異文化」の単位をできる限りflexibleにすべきです.外国人と向かい合ったからといって,必ずしも「日本人として」接するわけではありません.個が背負う文化共同体は,話題によっても相手との関係によっても様々に変わります.(9月8日の本学学芸談話会での向井剛,小野功生両氏の発表の中で,上記のような指摘があり,それを私のコトバで表現してみました)
理解という用語の使い方にも,受動的響きを感じますから,ついでに換えて異文化交流とでもすればいいんじゃないでしょうか. この話題,つきませんので,続きは学会で..
宇多田ヒカルと松田聖子とセンターテストキッズ
アメリカンスクールに通っている宇多田ヒカルさんが,チャリティコンサートのインタビューを英語で応えていました.他の出演者がアメリカ人だからというのが理由でした.彼女の英語を聞いていて思うのは,アメリカンスクールの学生同士でしゃべってる「まんま」の言葉遣いだな〜ということ.言語使用の共同体の特徴が「モロ」にでていましたね.I was just kindof ... で始まった彼女の言葉は,特定の共同体の中で「使用すること」で身についたものであると感じました.
転じて,アメリカん願望が強烈に感じられた松田聖子さんも芸能界では「英語が上手」です.彼女の英語は「模倣」で身につけた英語だなと感じます.さすが歌手,音声の模倣が上手いですね.共同体に参加するために使用して身につけた言語と模倣の言語の違いは,松田さんの場合「誰に対してしゃべって(使用して)身につけたのかわからない」タイプの英語といったら良いのでしょうか.例えば,アメリカのミュージシャンのインタビューを見て,それを規範にして,模倣して自分の言葉にしていったような人工的な感じがします.常套句的なフレーズが多い.また「アーティストらしく話そう」と自己モニターしている様子を感じます.宇多田さんはいつもといっしょの話し方でモニターしてない感じです.ま,以上は適当な憶測でしかありません.会ったこともない人を引き合いに出してはいけないのかもしれませんが,これ以上良い例が浮かばなかったもので,誹謗中傷の意図はありません.
さらに転じてセンターテストを代表とする英語試験を目標にがんばっている英語学習者の英語はどうかと言うと,「共同体での使用」も「模倣」もないんですね.問題集相手に覚えた英語は,宇多田さんの英語のように「使う相手の姿」も見えないし,松田さんのように「模倣している対象」も見えません.もともと試験問題自体が,だれが,どんな脈絡のなかで,どんな調子で語ったのかといった情報が極めて少ない(ないわけじゃない)上に,それを解答する受験者が自身で,試験問題の英語文に脈絡をつけたり,調子をつけたりできるための指導が学校で行われているわけでもない.試験問題自体もそれを促すものになっていない.バフチンの言葉で言えば言葉の使用に際して「宛名性」がない,「行為」として認識されていないのです.よく教科書英語は「生きた英語」じゃないって言いますが,生きてるってどういう意味かちゃんと分析して考えて作れば,教科書でも試験でも,いわんや教室でも「生きた」英語になるし,近づけると思うんです. 習熟度別クラスだ少人数クラスだALTの増員だなどと,外的改革に頼る前(と同時)に,英語教師にはまだまだできることがあります.自戒も込めて英語教師の意識改革に努めましょう.
Eyes Wide Shut 1999年8月9日
映画,Eyes Wide Shutを観ました.18禁です.内容から察するに,タイトルの意味は「その目で見たものを忘れなさい,見なかったことにしなさい」といったところでしょうか.だったらShut Your Eyesじゃだめなのか.だめなんですね,きっと.見ちゃったんだけど見てないことにするという矛盾を含んだタイトルにしなきゃ.Eyes Wide とくれば慣用表現じゃOPENです.Openを想定させて,そこにShutを持ってくる.この反意語の対比で上記の矛盾を含んだ意味を伝えるわけですね.なるほどねと感心しながらも,疲れました.この映画2時間30分くらいあります.トム&ニコルが好きでもなく,キューブリック作品に興味ない人には辛いかも.(このタイトルの解釈,全く的外れかもしれません)
この話をResearch Noteに書く理由,深読みしないでくださいませ.たった3語の英語で上手くひねったなと感心したことと,先日,兵庫の吉田さんに聞いた「Thank youを教えるのに半年かかった中学の先生」の話しがぼんやりと重なって,言語の面白さを感じさせられたというだけのことです...
英語教育の目的 1999年7月5日
柳瀬陽介さんのHPのBBSや,大津由紀雄さんのHPで英語教育の目的の議論,提案が出ています.直井一博さんのHPにも,近日アップの告知があります.各地で行われる教員採用試験の問題にも「英語をなんでやるのかと問い掛ける生徒にあなたはどのように答えますか?」等といった出題で,英語教育の目的が問われることがあります.私個人の目的は「ビリージョエルやエリッククラプトンの歌を歌いたかったから.あとは惰性で」ってことで済ませているのですが(?),公の場で語る目的論は,必ずしもそうはいきません.
私の知る限り(とても狭いのですが)では,まとまった形で目的論を提示しているのは,大津さんのウェブサイトの「学校英語教育がほんとうにやらなければならないこと」と柳瀬さんの「90年代の空手技術書から考える英語教育目的論」あらため「言語ゲームの集合体としての英語教育」です.それぞれに研究背景の異なるおふたり(大津さん=言語研究,柳瀬さん=哲学研究,空手研究(?))ですので,それぞれの主眼はかなり異なりますが,どちらも興味深い提案ですので,鳴門の皆さんにもご一読いただきたいものです.
この二つの目的論を読んだ私の感想を,すこし.まず大津さんの目的論について.メタ言語知識の意義を主眼に置いた目的論の展開は,言語の面白さ,豊かさ,恐さを気づかせるという目的の主張が,本文の具体例にもよくあらわれていて,説得力のあるものでした.ゼミの学生さんも,読んで感動していました.メタ言語知識が言語感覚を磨くことになるでしょうし,この点については私は異論はありません.
大津さんの目的論にはもうひとつ目的があります.「言語は人間にだけ,しかも,人間に平等に与えられた,種の特性であり,言語に優劣はないことを気づかせる」というものです.
大津さんの主張では,メタ言語的に見て言語の構造には優劣はありません.しかしながら,それは認めたとしても,言語の通用度も含め「社会での言語使用」を考えた時点で,言語には優劣がつきます.大津さんは,「メタ言語意識の発達促進に根差した英語教育が「英語帝国主義」状況を粉砕するための強力な武器となる」と主張されるのですが,私にはそうは思えません.「英語帝国主義(英語支配の社会構造)」の問題は,言語が社会で使用されることで発生する問題であり,構造理論の問題ではありません.現代社会では,英語に比べて日本語は劣勢です.EUの会議で,ドイツ語が同時通訳の言語からはずされたことに腹をたてたドイツの代表が会議をボイコットした話しが最近ありましたが,ドイツ語は英語やフランス語に比べて劣勢です.個人のレベルの話しにしても,言語構造に優劣はないと分かっても,英語の音楽の方がずっといい,という感性に教育は何か言えますか?イタリア語はセクシーだと思う感性は,それでいいじゃないですか.ハワイ語で物理や科学の授業をするのは大変です.言語は平等で優劣はないというのは,「言語構造においては」という限定つきの表現であるべきで,しかも多くの見解のうちのひとつでしかない.言語の見方を少し変えれば,「言語」には優劣があるのが現実です.それを教育で全部平等にしてしまうなんて乱暴です.
つまるところ:メタ言語意識の教育が「英語帝国主義」と戦う武器になると主張するならば,大津さんは徹底して言語使用を英語教育の目的から排除すべきだと思います.他言語に比べて英語は適用度が高いから英語を学ぶ,という論点との同居は不可能だと思います.
英語帝国主義に関わる主張についてのみ(否定的な)意見を書きましたが,この点以外については,大変共感できる提案だと思います.私は,英語教育は言語使用を目的とせざるを得ない,どんな理念や思想も体験に裏打ちされてこそ,と思っています.「言語使用に正面から向かい合う英語教育」の可能性については,柳瀬さんの「言語ゲームの集合体としての英語教育」が参考になります.小学校での「総合的な学習の時間」の研究開発校の実践には,「言語ゲームの集合体」と解釈できるプログラムもありそうです.
四国英語教育学会の感想 1999年7月5日
6月27日,高知工科大学で四国英語教育学会が開かれました.研究発表7本とCALLのデモがありましたが,研究発表についてすこしだけ触れます.
面白い実践報告が多い充実した午前中でした.長崎政浩さんの発問の分類に関する研究は,目的が実践に根ざしていると同時に,実践を鳥瞰する高みの視点もあって,教師教育を考えるのに良い試みだと思いました.ただ,敢えて言えば,研究の方法論が,目的に合っていないのが残念でした(具体的にどんな内容と方法だったのか,説明すべきなのですが..).
午後の平本哲嗣さんの発表は,注釈に自分の名前を列ねてもらっている関係もあるので,少しだけ「手前味噌」的なのですが,環境も含めて学びを考える際に,学習をどう捉えたら良いのかが議論されていた「枠組み論」で,示唆に富む発表でした.
会場の高知工科大学って,とってもハイテク&モダンな大学でした.鳴門教育大もそうですが,あれだけの立派な施設を18歳からの若い人だけでなく,広く社会人に開放すべきだと思います.教育・研究環境を最大限にいかせるのは,若い人だけじゃない,むしろ経験豊かで研究目的が明確な人に積極的に利用してほしいですものね.
英語教育と異文化理解教育と異文化間コミュニケーション教育,さらには国際理解教育と.. 1999年6月4日
つまるところ,小学校の「総合的な学習の時間(以下総合の時間)」って何なわけ? というわけで,総合の時間について,特に「国際理解教育の一環」として英語が関わってくる部分について考えています.6月2日に学芸談話会にて総合の時間の実践に見られる学習観に焦点をあてた発表をしました.その際に問題になったのが,学習観よりも,国際理解教育と英語の関係でした.国際理解教育の一部として異文化理解教育を位置付け,英語が果たすべ期役割を異文化理解に限定して議論を進めてみました.文明と文化という語を対比して,文明が普遍性志向的なのに対し「文化」の性質を普遍からの自己差異化とみなし,その差異性は内在するものではなく関係によって顕われるものとして文化を位置付けようとしました.そうすると異文化理解とは,コミュニケーションそのものになり,その学習は「異文化理解実践コミュニケーション共同体への参加」と規定される.この点で英語教育と異文化理解教育の境界線は消失し,コミュニケーションという目標に収束されると考えました.この理念で小学校の実践が変わる!と打ち上げ花火をあげ,その上で,小学校の実践例をふたつ対比しました.ひとつが国際理解もうひとつが英語学習を目的とした授業の例なのですが,その表面的な解釈とは裏腹に,上記の理念で解釈し直すと前者が英語の知識学習,後者が異文化理解の授業になっているのだ,という「どんでん返し」を用意した発表シナリオでした. シナリオ通りに行かない部分もあり,自身の浅薄さを自覚しましたが,大筋では間違いはないと思っています.
私は何でもとにかくやってみることが大事だ,などとsink or swim的な教育を支持しているわけではありません.しかし状況的学習理論の観点から考えると,異文化コミュニケーションなくして,異文化理解教育は成立しない.英語教育と異文化教育との接点はコミュニケーションの成立にあり,以上の3概念(英語,異文化理解,異文化コミュニケーション)はひとつのKey word「コミュニケーション実践共同体への参加」に収斂されると主張したいわけです.この3つを練り込むような授業実践を描いていくのが今の私の課題かなあ.
国際理解はまたひとつ大きな概念ですし,国際とグローバルとの違いもあり,もっと議論されるべき問題だと考えています.
「あんなあ,へ。この京都ではナ.....ほんまのことは,いうもんやないのん。ほんまのことは,わかるもんやのんえ」 1999年5月10日
講談社の現代思想の冒険者たちシリーズを鳴門市図書館から最近ぼちぼち借りて読むようになったのですが,著者の意気込み,熱の入り具合がそれぞれに違っていて,比べながら読むと面白かったりします。今はポパーとクリステヴァを借りています。でも,私が面白いと取り上げるのは本文じゃなくって付録の月報なんですね。思索を深める根性が足りない結果の逃避か?
表記の京都弁は,ポパーの巻の月報11号に掲載されている森 毅さんの文章のなかの一節です。いつかハワイ日記にも,話し手の責任,聞き手の責任それぞれの比重が文化によって違うと書きましたが,日本の中でも京都はひと際,聞き手責任文化なのでしょうか。京都とひとくくりにするのは乱暴ですが,コミュニティ同士の比較に及んだ時にはやはり「京都は特に。。」なんてことはあるかも知れませんね。話し手責任,聞き手責任のバランスは実際には話し合う相手によっても異なりますよね。詰まるところ結局,全ての個が異文化。家族,仕事場の同僚,近所,とグループ化はできますが,最後は個と個のコミュニケーション。教育は,国際化の御旗のもとに,いわなきゃわかんないとばかり話し手責任の文化への移行を進めているようですが,果たして社会は今後どうなりますやら。。。 私個人は,話し手ができるだけ自分の意思を明確にする責任を負うスタイルの方がいいかなと今は思っています。 ちなみに森毅さんのエッセイ「理性の行方」の内容と,この文章はまったく関係がありません。引用に対する私の勝手な意味づけについては,ゴロゴロと連想を重ねた結果です。。。
Rule like = Rule governed ? 1999年4月12日
なかなか本を落ち着いて読めない季節ですが,日曜日に妻の行きつけの鳴門市立図書館で,Nick EllisのLanguage Learningに掲載されたConnectionism と Emergentismに関する展望論文を読み直しました。共感する部分,目を開かせてもらう部分が多い論文だと思う反面,私自身がconnectionismの研究をするわけじゃないわけで,この論考が英語教育研究をする私の中にどう位置づくのかなと考えているうちに「螢の光」が流れはじめ,その日はおしまいになりました。
最近,学部生,大学院生問わず文法知識の価値を再評価する傾向を感じます。いわく「やはり文法あっての英語力だと思うんですよ」と今日も学部4年のゼミ生さんが言っていました。近年の「コミュニカティヴ」な授業を受けてきた反動でしょうか,それとも自分の英語が正しいのかどうか自信が持てないことからくる焦りでしょうか。やはり文法知識は「心の拠り所」なのかもしれません。私自身も文法知識が不必要だとはいいません。しかし,文法知識が何のために必要なのかという議論なしに「文法を知っているから話せる」などとナイーブに文法を言語使用の前提にする人には「俗論べったりに過ぎはしないかい?」と聞きたいです。規則を知る→その運用,という図式での言語使用のとらえ方に対して,上記論文は異論を唱えます。人間のことばの使用には規則性がありますが,かといってそういうことば使いが「規則の運用」によるものであるとは限りません。の言語運用観,学習観を大きく描きかえるconnectionism & emergentism の説明は英語教育研究者が耳を傾ける価値があると思います。もちろんこれに対する反論はありますが,それは当然です。どこかの理論の「決定版」を借用して,英語教育の実践を一気に変えてしまおうなんてもし研究者が考えているとしたら。。。まあそういう一獲千金狙いも「あり」かもしれませんが,そうしたいなら一流広告会社と契約しないとね。
はやく自身の文法ー言語使用関係論を発表しなきゃ。その際にもHPを/も利用しますので,またここへ覗きに来て下さいね。
クワイン先生曰く 1999年4月6日
講談社の現代思想の冒険者たちシリーズ第19巻『クワイン ホーリズムの哲学』に挟まれている「ちらし」といっていいほどの小冊子に吉田夏彦氏の寄稿がある。この中で、彼はクワインとのやり取りを紹介しているのだが、「神の存在証明で有効なものは一つもないが、神の存在しないことの決定的な証明もないから、信仰を持っている人達にもそれなりの権利があるのじゃないか」という吉田氏に普段紳士的なクワインが「こわい顔をして」反論したらしい。「そう言うことで神の存在を許すのは、この部屋が壁に囲まれていて、中庭が見えないからと言って、中庭には存在しないことを二人とも知っているはずの塔が中庭にあるかも知れないことを認めるのと同じことで、真面目な人間のすることではない」といわれ無神論信仰のあつさを感じた、ということであった。
この小冊子には「思想家冒険漂流記」といういしいひさいち氏の傑作漫画も載っていて、散逸させるにはもったいなく、是非保存に便利なポケットを親本につけて欲しいほどである。それはさておき、普遍文法と言う神さまは存在しないと信じている私なのだが、最近不毛な「神々の戦い」をしているのかと弱気になっていたので、幾分元気を取り戻した。普遍文法が言語の制約を定式化する目的を越えて、言語習得は原理と,その原理が持つ変数の設定によって説明できると主張する限り、そんな生得的文法などなくても言語獲得は語れるのだ、生成文法理論は自然言語の可能性と制約の議論だけに留まるべきであると主張しつづけることにしよう。
追記1:それにしてもいしいひさいちは面白い。バフチン編なんか爆笑した。
研究会日記:「言語問題総合研究会」 1999年3月21日 國學院大学渋谷
総じて実に刺激的な研究会だった。正直、私の小さな知性は言語哲学の大波に呑まれて溺れそうになった。他/多分野の研究者と意見を交わすことで、自身が英語教育の研究者としてというよりも、学者として試され鍛えられる。次回はもうすこし議論に絡みたい。朝から晩までどこをとっても面白い研究会だったが,最後の研究発表をきっかけに考えたことを記しておきたい。発表タイトルなど,研究会の詳細については上記のリンク先を参照してください。
研究発表で生成音韻論の現状を知ることができた。エレメント理論の面白みが少しは理解できた気がする。ややこしい理論を,それでもかなり分りやすく解説してくださった那須川氏にはとても感謝している。しかし私は生成理論に組みしない。生成文法理論は言語の制約を明らかにする理論としては分かるが、言語獲得の理論にならないと思うのだが、生成研究者とはこの点で分かりあえない。当日もこういう議論をしようと思ったのだけれど、言いたいことが言い切れなかったので、しつこくネットで書いてみたい。ただし最初にお断りしておくが,以下の議論は直接那須川氏の発表とは関係がなく,生成文法と言語獲得研究について私が抱いている疑念についてである。那須川氏と高橋氏には「生成文法の教科書に書いてあるでしょ,そんなこと」といったレベルの質問に真摯に応えていただいたことにあらためてお礼を申し上げます。それはそれとして,さて:
人間の言語がとり得る形を明らかにする「制約」の文法としての生成の意義は認める。しかし所産の分析の結果である原理とパラメータは,言語がそういう形に「なった」結果からの分析であって、生得的に備わって「ある」ものとは言えない。生得性の議論は別にすべきである。生成論者は、経験上の学習として説明できないから、生得的に備わっているのだ,その「ある」原理が、言語入力を受けて発現するのだと主張する。しかし、行動主義心理学への反論として立論された「経験上説明できないから、生得的であるとしか考えられない」という議論は現在の心理学習発達理論への反論としても成立しているのであろうか。
例えば今回の那須川氏の発表では「女ごころ」は文法的だが「女ごとば」は非文法であるというのがあった。確かに言われてみたらそうだし、こういう思いがけない事例とそれを説明する理論の複雑さで納得させられた気になってしまうわけだが,一足飛びに「だから生得的だ」というのは間違いだと思う。女ごとばとは言わないのが人間の脳、聴覚、調音器官の制約からくるものであることは認める。人間の言語はけしてすべて恣意的なものではないことは明らかだ。しかし「人間の肉体的制約上そうならざるを得ないもの」ならば、「備わって」いなくても良いし,それが「ある」から言語が獲得できると言わなくても良いではないか。経験上学習不可能な事例とそれを説明する複雑な規則に圧倒されて「学べないでしょ?だからこういう規則が入っているの。それが個別言語の入力を受けて発現するの」と言われるて「うん、なるほどそうかも」と思ってはいけない。
言語によらない発達学習理論も昔程ナイーブではない。シュミレーション上とはいえ、コネクショニズムは言語発達の過程を説明できるのだ。生成文法理論が問題にするような非文法文の非文法性をコネクショニズムが説明できないのは事実だ。人間の脳の制約の理論化としての生成文法の意義は認める。しかし言語獲得が普遍文法の発現によるものだという議論は、コネクショニストの説明により,言語が経験上からは学べないものではなくなった今、普遍文法の実在を前提にしたパラメータ設定による言語獲得モデルは,言語能力の発達理論としての意義、妥当性を失いartifact になったのではないか。それでもパラメータ設定理論を支持しつづけるのであれば,コネクショニズムでは説明できない言語発達の様を見つけなくてはならない。追いかけっこをするのだ。そうでなければ,生成文法研究が人間の脳の制約を明らかにする学問以上ではない現状を認めるべきで,パラメータ設定による獲得理論を標榜すべきではない。
しつこくくり返すけれど,言語の分析から人間の言語の制約はわかるけれど、制約が学習を可能にするわけじゃない。生成理論研究の成果は、言語獲得を可能にしている脳の機能の研究じゃない。コネクショニストはそういう言語特有の生得的メカニズムを設定しなくても言語の獲得過程を説明できるのだ。生成文法の議論は、言語入力からだけでは、言語の獲得は説明できないから生得的メカニズムを設定したのだから、もはや手品のタネは暴かれたのだと思う。
言語研究を化学や物理の研究になぞらえ、実際現象として証明はできないからといって、理論を否定すべきではないと生成文法論者はしばしば主張するが、このように言語現象そのものを扱うことを避けているうちに、生成文法理論は言語獲得の生得的メカニズムの研究ではなくなり、言語の持ち得る可能な形式の研究に限定されるようになりつつかる。生得的メカニズムを設定するかしないかは形而上の議論で、いわば神々の議論であると言う人もいるが、私にはなぜそう言えてしまうのか分からない。以上論じたように、脳(肉体)の制約理論と言語学習理論は別次元の問題ではないのだろうか。それとも私は形而上の思考ができない人間なのか?はたしていかに??
transcript の underspecificity の問題(Reengineering
groupでの書簡、吉田さん、直井さんの授業(活動)記述を通じて考えたこと)
ビデオが最も記述情報量が多く、正確だとして、「論文」にまとめる際にはそれをどこまで落とせるのか。
落とした記述をベースに解釈する上で、どこまで自由に文脈や、背景などをフレームの中に取り込んで解釈するのか。
被観察者の「本当の意図・意味」をどこまで大切にすべきか。アクションリサーチのように、研究の成果が自らの実践に戻ってくることを直載的に意図した研究では、授業実践者、生徒の「本当の」意図が主体になり、その厳密な記述が求められると思うのです。しかし授業分析研究の結果を、授業を見ていない人に伝えることを意図した研究の場合、実践者、生徒の意図を「正確に」研究者が解釈し記述することなど到底不可能です。それを目指すのは無理と開き直るのか?それに迫る必要はないのか?あるとしたらそういう「本当の」意図に「正確に」迫ることを保証する方法論はあるのか?柳瀬さんの書評に紹介されていた深田さんのアクションサーチの方法論のように、いくつかの分析のガイドラインを設けたとしても、基本的に解釈は研究者の意味づけによってなされ、他者(論文の読み手)には厳密には共有されないわけですよね。そういったコミュニケーションの根本的な問題に加えて、transcript
が落としてしまった情報、学習者、教師、そのクラスの歴史など取り入れだしたらきりのない情報を考慮に入れず解釈をしてしまう問題をどうやってクリアしていくのかが分からない。「授業をトランスクライブして解釈したとして、それで学習の何がどれだけ分かるのか」といわれるとなんとも。授業実践ベースの研究が教師のreflective
practiceには役立つとしても、フィールドベースのSLA研究というのは所詮無理なのかと悩んでしまいます。「学習論、コミュニケーション論に基づいて教室を見る」方法を模索していくにも事はそれ程簡単なようではなさそうです。『協同するからだとことば』などの研究実践は参考になるんだろうけれど、教室という設定での研究が成立するのかまではわからない。Nunanの
Research Methods in Language Learning CUP
1992を読んで見ようと思いますが、interpretation
の問題までは考えていないでしょうね。これを真面目に考えるとliterary
theory
になっちゃって、もうへろへろですよ。ハワイ語の研究でコトバのあいまいさを生むunderspecificityの問題を論じていたひとが言っていたことで「あいまいなほうが、当事者どうし以外が聞いても分からないくらい文脈依存度を高めて、秘密を守れるのでいいぞ」「いざとなったらそう言う意味で言ったんじゃないて逃げられるのでいいぞ(deniabilityって言ってた)」というのがあったのですが、なるほどと思いました。proficientになれば、補助記号(ハワイ語の書きコトバにそういうのがある)なしでも曖昧さを排除できるそうで、そういう補助記号は自転車の補助輪のように上達すると邪魔になるのだそうです。補助記号こそないけれど、どんな言語もいくらあがいたところでunderspecificationの問題からは逃れられないよなと再認識しました。記述のレベル、解釈に取り入れる情報の範囲をどうするのか、この問題はやっぱり深いですね。方法論と研究そのものの両方で迷わなくっちゃいけない英語教育の分野っていったい。。。。でも面白いかな。
動機づけの問題は、精神論になりやすいもの。さらに「やる気」という言葉を使うと、もう反射的に「やる気のないものはここから出ていけ!」とかいいながら机をバンッと叩いてしまいそう。それくらい(?)「やる気」の問題は熱い心理学(注)のように考えられがちです。直井さんはこれを英語学習の場面に即して分かりやすいレベルで分析してくれました。 「適当な目標設定と十分な体力」→「していることが楽しいと判断できる基準を持つ」・「褒める/られる」→「自分の中に位置付け継続する」とまとめられるでしょうか。
直井さんは「「楽しめる」というのは、「動機づけ」や「やる気」を云々する必要がないほど、ものごとに取り組み、しかもそれに積極的に向かっている状態です。」と楽しさについて述べていますが、このあたりはチクセントミハイが「フロー」と名付けた、疲労も時間も忘れて没頭するような楽しい経験をすることの重要性と一致します。すこし話がそれますが、ハワイでも有名だったジャンプの原田が、一時めげそうになったとき奥さんに「楽しいからやってんじゃないの」と言われて以来復活したという話も「フロー」を経験していた原田だからこそ心に響いたのではないでしょうか(しかし、ほんとか、この話?)。これに比べて、例えばフィギュアスケートのような、ばっちりうまく「自己ベスト」が決まることがほとんどなく、極度の緊張感の持続を要求され、勝利者はいつもひとりしかいないスポーツでの選手生命の短さというのも理解できる気がしますね。 「楽しいからやってんでしょ?」と言われて素直にそう思える人は幸せだなあ。
フロー論のように「熱い」心理学でもなく、冷たい機械的分析でもなく「温かい」レベルで「動機づけ」の分析を行った鹿毛さんの文章は学習者の分析にも、内省による自己分析にも役立つので一読をお薦めする次第です。
彼は「やる気」を三つの「こだわり」(自己、内容、状況)に分類し、やる気とは、経験を通してそれぞれの「こだわり」が統合されたものであるとしています。「やる気」は構造的に発達するものであり、その人なり経験に基づく個性的なこだわり方のスタイルができ、さらにこだわりは価値観に発展し「こころざし」につながっていく。このようなやる気の発達は個性的なものであり「自分さがし」にほかならないと説明しています。
詳細は原著を御覧いただきたいのですが、「自己こだわり」は例えば「自分を高めたいのでトレーニングする」、「内容こだわり」は「小鳥の事が知りたくて図鑑を調べる」、「状況こだわり」は2つに下位区分され「先生をよろこばせたいのでがんばる」といった「関係こだわり」と「成績があがれば小遣いがあがるので一夜漬けする」ような「条件こだわり」となります。これらの「こだわり」がどのようにからみ合って、その人独自のやる気のメカニズムができるのかを明らかにしようと試みます。
どうですか?昔、英語教育概論の授業でinstrumental motivation と
integrative motivation ていうのを習いましたがinstrumental
ではだめで、integrative motivation
につながるような指導をしましょうと教わりました。しかし、instrumentalを仮想敵にしてintegrativeな動機づけをThe
ideal motivation
にしてしまうこのような発想では、鹿毛さんのいう「動機づけの多様性、個性化」「じぶんさがしとしてのやる気の発達」は見えてこなくなります。けっきょく「言語学習はたいへんだが価値あるすんばらしいことだ、がんばろう!」と熱くなって叫んでいるのと同じことに陥ります。「分類が2種類だったのが4種類に増えただけじゃないか、大して変わらないじゃないか」とは言えない、意義深い「やる気」論がここにはあると思います。
直井さんの「やる気」のお話は、上記の「自分さがし」のような長期的視点ではなく、短期的な視点でやる気をとらえて説明していて、その点で両者は異なるのですが、「やる気」がキーワードになって私の中で繋がってしまったので書いてみました。それにしても、やる気モードに入るまでの条件まで述べられていて、直井さん自身が日常からHard
Workerなのだろうと察しがつきます。私だと「やる気になれない50の理由(言い訳)」ならばっちり書けそうなんですけどね(^-^)。
(注)『「温かい認知」の心理学』海保博之(編)1997 金子書房